第62話

「酷い男だねぇ。声は聞こえなかったけど、千晶さんの様子で分かるよ。ありゃ頭のネジが何本か抜けちゃってるよ」


「……あなたと同じですね」


 千晶はあらっぽくブレーキとアクセルを切り替えながら悪態あくたいく。もう、刺せるものなら刺してしまえと思っていた。


肝腎かんじんなのは、あの男が追いかけてくるかどうか。千晶さんはどう思う?」


「追いかけてきますよ。電話の向こうでエンジンの音が変わるのを聞きましたから。もう停車していません」


「そうかぁ……じゃあ次の分かれ道を右に行こうか」


 龍崎はそう言うと走り続ける主路線から外れた別の道へ誘導する。千晶はその手前に掲げられた経路案内の青看板に一瞬だけ目を移した。


龍神りゅうじん?」


「国道425号線、和歌山県の龍神村行きだよぉ。ここからさらに道は細くなるから気をつけてね」


 道は入口こそ対向二車線だったが、すぐに一車線へと狭まる。短いトンネルを越えると視界が極端に悪くなった。


「スピードを落として。崖から落ちるよ」


 千晶は急ブレーキを踏んでハンドルを切る。細い道がほぼ直角にカーブしているので、目の前の道がなくなったように思えた。今までとは異なる恐怖に全身から汗が噴き出す。脇の真っ赤な看板には『この先、転落死亡事故多発』と見たことのない注意書きが記されていた。


「な、なんですか、ここ……」


「国道だよ。こんな夜遅くに走っている車はいないと思うけど、もし対向車が来たら避けられないから気をつけて」


 道は進むほどに過酷さを増し、斜面を無理矢理通しただけのような道路となっていく。右側を土壁、左側をガードレールから崖下をのぞみ、車体が弾むような急勾配きゅうこうばいの中、異様な数のカーブが続き、道はコンパクトカーですら両サイドを擦りかねないほど狭まっていた。これまでの道が山道としたら、ここは崖道がけみちとも呼べる悪路が続いている。いつ、どこで道が突然なくなったとしても不思議ではなかった。


 イアホンマイクから着信音が聞こえる。


 スマートフォンの液晶画面には【着信・戸村幸里】と表示されていた。


「もう、やめて……」


 千晶は右耳から聞こえる電子音に向かってかすれた声でつぶやく。取る必要はない。この電話がどこに繋がるかはすでに分かっている。ただ、夫の名前に強い拒否反応を抱く自分の気持ちにえられなかった。


「この先にねぇ、少し長い一本道があるんだよねぇ」


 龍崎の声が左耳から聞こえてくる。


「そこに少しなだらかな斜面があってね。そこから山へ入れるようになってるんだ」


「なんですか? そこに何が……」


「そこに、一人、埋めたなぁ」


 龍崎は近所に駄菓子屋があったかのような口調で、懐かしそうにつぶやいた。


「今日みたいに雨が降る夜中だったよ。斜面をちょっと上がると、少しだけ平らなところを見つけたんだ。僕はいつもの黒い雨合羽あまがっぱを着てね、大きなショベルで穴を掘ってね、そこに女を捨てたんだ」


「やめてください、そんな話聞きたくない……」


「全部捨ててからまた土を埋め直したんだけど、その時何か落ちているものを見つけたんだ。でもこの辺は本当に暗くて全然見えないでしょ。それで何かと思って懐中電灯で照らしてみたら、その女の手で……」


「やめてって言ってるでしょ!」


 千晶はイアホンマイクの着信を切りつつ叫ぶ。


「私をどこへ連れて行こうって言うの? ここで殺して埋めるつもりなの?」


「そんなことしないよぉ。だってそんなことしたら僕もこんなところに取り残されちゃう。あの男が追いかけてくるから、見つからないように元の道から外れただけだよ」


 イアホンマイクからまた着信音が聞こえてくる。


 その時、ルームミラーに一瞬だけ光るものを見た気がした。


「何? 何が光ったの?」


「どうしたの? 千晶さん」


「後ろです! 後ろで何か光が見えました!」


 運転中の千晶には確認する余裕はない。龍崎はぐらぐらと揺れる車内でゆっくりと振り返って後方を見つめた。


「……ああ、来ちゃったねぇ。曲がり道でちらちら光っている。一つ目だ。無茶なバイクかもしれないけど」


 この夜に、この雨の中で、こんな過酷な道を走るバイクなど考えられない。執念しゅうねんか、野生の勘かは分からないが、大我は龍崎が選んだ道を見破って追いかけてきた。


「あ!」


 その瞬間、千晶の車が泥にまみれて横滑りする。目の前に迫る崖を避けようとブレーキを踏んで思いっきりハンドルを切った。しかし勢いは止まらず今度は右手の斜面に乗り上げて大木に激突する。フロントガラスにクモの巣状のひびが走り、車は停止した。


 千晶はハンドルに額をぶつけたままうなだれる。限りなく減速していたので衝突による怪我はないが、気力が完全に尽きてしまった。車もエンジン音を聞く限り問題はない。しかしフロントガラスのヒビは視界を大きく損なって、これ以上この過酷な道を高速で走り続けることはできなくなった。


「ここまでだねぇ」


 龍崎が疲れたような声で言う。どうやら彼にも怪我けがはないようだ。千晶は顔を上げて彼を見た。


 龍崎は、千晶の首元にナイフを突きつけていた。


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