第61話

「……こういうのも、遺伝するのかしらねぇ」


 母はそう言って天井を見上げる。つられて千晶も見上げると、昔怖かった無数の微生物がっているような模様が目に入った。


「遺伝って、どういうこと?」


「男運の悪さ。うちは代々だいだい受け継いでいくのかもね」


「……父さんは交通事故だったんでしょ?」


「そう。千晶が小学校へ入る前だったから、6歳だっけ?」


「今の泰輝と同じ歳か……」


「実家と縁を切ってまで結婚したのに。お陰でひどい目にったわ」


「父さんはいい人だったんでしょ? 早死はやじにだって父さんのせいじゃない」


「それも含めて男運よ。まあ、千晶がいて良かったわ」


 母は顔を下げて皮肉めいた笑みを浮かべる。母の実家には全く馴染なじみがない。以前に母の兄か弟に会ったような記憶はあるが、今はもうそれも疎遠そえんになっているようだ。


「……千晶、あっちのご両親には会ったの? 和歌山だっけ?」


「会ったよ。お祖母ばあちゃんにも。みんないい人たちだった。泰輝のことも理解してくれている。心配ないよ」


「真に受けちゃ駄目よ。ちやほやされている間にさっさと子供を作りなさい」


「……ひねくれすぎだよ、母さんは」


「したたかと言って欲しいわね。私は千晶と泰ちゃんのために言ってるのよ。まあ餞別せんべつと思って聞いておきなさい」


 その時、ふと千晶の胸に寂しさが通り抜ける。口の悪いこの母が、自分の前からいなくなる未来を想像してしまった。いつかは必ず訪れる瞬間、それが実は、そう遠くないように感じられた。


「……餞別じゃないでしょ。私は母さんと縁を切る気はないから」


 千晶は胸に空いた隙間を満たすようにハーブティを飲み干した。


「男運の悪さだって私が打ち破るから、ちゃんと見ててよ」


「おやまあ、なんて勇ましい娘だこと」


 母は芝居がかった口調で淡々たんたんと返す。


「じゃあ、あの年下の旦那さんをしっかり守ってあげなさい。くれぐれも、交通事故には気をつけてね」


 そしてようやく、母親らしい微笑ほほえみを見せた。


三十二


【8月20日 午後8時12分 国道168号線】


 いつ終わるとも知れない暗黒の自動車道を、ただひたすらに走り続ける。役場や名所案内所を過ぎ去ると、山はさらに深くなり、道も荒れて狭くなっていった。雨は一向に降りやまず、流れ落ちた土砂が泥濘ぬかるみを作る。いつの間にか地獄に迷い込んだと言われても、きっと信じてしまうだろう。


「幸里が、幸里が……」


 千晶は大きく見開いた目に視界の悪い前方を映しながら、自身と一体となった車を本能に従って走らせる。ハンドルを切り、アクセルを踏み、ブレーキで拍子ひょうしを取る。限界速度で入り込んだカーブを衝突する寸前で切り抜けることで、泣き崩れそうな精神を持ちこたえている。とめどなく溢れる涙のお陰で、瞬きすらも必要なくなっていた。


 戸村幸里が、愛葉大我の車にねられた。決定的な瞬間は見ていないが、見ないほうが良かっただろう。私のせいで彼を死なせてしまった。彼の未来と、私の未来を壊してしまった。巨大な喪失感とともに開いた胸の穴が、重い悲しみによって満たされる。そして恐怖が全ての感情を呑み込んでいった。


『チアキィ……』


 その時、右耳からいきなり男の声が差し込んできた。息もえになった苦しげなうめき声。名所案内所にいた時から通話中だった電話はまだ切れていなかった。千晶の耳にはそれが、痛ましい傷を負って瀕死ひんしとなった夫の声に聞こえた。


『千晶、どこだ……帰ってきてくれ……』


「幸里! 無事だったの? 助かったの?」


『死んだに決まってんだろ。この馬鹿女が』


 耳元で上がった甲高かんだかい笑い声が、千晶を絶望のふちに突き落とした。


『チアキィ、久しぶりだなぁ。今度はどこに逃げたんだ?』


 愛葉大我のからかうような声が聞こえる。奴は戸村の電話を奪って千晶の耳に侵入してきた。


『なぁ千晶、お前いつから気づいていたんだ? 後ろから煽っているのが俺だって。付いていくのが大変だったぞ。しばらく見ないうちにケツの振り方もうまくなったみたいだな。おい、どこの男に教わったんだよ、あぁ?』


「大我……あなた、自分で何をやったか分かっているの?」


『質問に答えろよ、なあ。いつから気づいていたんだよ。さっき停まった時じゃねぇだろ。高速でUターンした時か? 信号無視した時か? 後ろで俺が中指立てたのは見たか? なぁ、どうなんだよ』


「それになんの関係があるのよ!」


『俺に気づいたら、さっさと謝りに来いって言ってんだよ! このボケが!』


 鼓膜こまくを貫くような声に冷や汗が吹き出す。しかし千晶は歯を食いしばってえそうな気持ちにあらがった。


「なんで、幸里を殺したの……」


『あぁ? 人の女に手ぇ出す奴なんて殺されて当然だろ』


「私はあなたの女じゃない! 自分で何をやったか分かっているの?」


『千晶、てめぇも俺を裏切りやがったな。男作って、ガキと一緒に逃げやがって。家も替えて、電話も替えて……俺が外へ出た時、どんな気持ちだったか分かるか? お前だけは待っているって信じていたんだぞ。その俺の気持ちを、てめぇは踏みにじったんだぞ!』


「勝手なことを言うな! 私を裏切ったのはあなたでしょ! 私と泰輝を捨てたのはあなたでしょ! 今さら何を言ってるの? 私が……私がどれだけ苦労したか分かっているの?」


「千晶さん」


 隣から龍崎がナイフの腹で千晶の腕を軽く叩く。


「そんな電話、もう切っちゃおうよ。話をするだけ無駄だよ」


 千晶は怒りに堪える顔を正面に向けたまま、言う通りに電話を切った。

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