第60話

「ああ、違うよぉ。理解できないのは君たちのほうだよ」


 龍崎は背後の様子をちらちら見ながら話す。


「僕ね、ここに警察がいると聞いたから、もっと大勢がずらっと待ち構えていると思っていたんだよ。でも来てみたら、あれはなんだい? たった二人だ。戸村くんも大変な勇気だよ。あんな怖い車の前に立つなんて、僕にはとてもできない。凄い男だ、見直したよ」


「何が、言いたいんですか?」


「千晶さんも立派だよ。今、あの怖い男に立ち向かおうと思ったよね? 車を下りてやっつけてやろうと考えたよね。顔を見れば分かるよ。そんな顔をしていた。うっかり見とれるところだったよ。止めるのを忘れそうになったよ」


「……大我が、何かするって言うんですか?」


 千晶は龍崎の分析に寒気を覚える。彼は自らの正体を明かした時から思考と感情が安定し、怜悧れいりな老人へと変貌へんぼうしている。これまでの、どこかとぼけた受け答えや認知症による混乱が演技だったとは思えない。恐らく昨夜に行った矢田部の殺害と、今日一日の極限状態が徐々に彼の本性を目覚めさせたのだろう。


「でも、今さら何ができるんですか? 何かやって、どうなるんですか?」


「何って、あなたたちを殺せるじゃない。どうなるって、あなたたちが死ぬじゃない」


「そんな馬鹿なこと……」


「あの男の考えは一貫しているよ。誰かの車を奪う、その車で誰かをく、千晶さんの昔の店に火をつける、千晶さんを車で追いかけて怖がらせる。やりたいことと、やっていることが綺麗に繋がっているよ。それなのに、どうしてみんな分からないんだろうなぁ。どうして、自分たちの常識ばかり通用すると思うのかなぁ」


 千晶は視線だけを動かしてサイドミラーで後方を見る。戸村と大我の対話が続いているが、大我は車を下りる態度を見せない。千晶は二人の男の性格をよく知っている。戸村は腰をえてじっくりと話し合うのが好きだ。自分は馬鹿だから考えるのに時間がかかると言っているが、そうではない。真面目で優しいから、親身になってゆっくりと考えてくれる人だった。


 しかし大我は……。


「だから千晶さんは車を下りちゃいけないよ。あの男が車に乗っている限りはね。僕の言うことを聞いたほうがいい。僕はあなたを守りたいんだ」


「……幸里!」


 黒い車のごえが、闇夜の風を震わせる。


 一瞬のうちに、戸村が大我の車にね飛ばされた。


「幸里!」


 何が起きたのか。大我の車が戸村の車に衝突している。間にいた戸村はどうなった? 挟まれたのか? 続けて大我は隣のパトカーに向かって何かを投げつける。割れる音とともに白黒の車体が一気に燃え上がった。


「火炎瓶……」


「逃げろ、千晶さん。アクセルを踏め」


 龍崎の刺すような声で我に返った千晶は、反射的にアクセルを踏み込んだ。がくんっと車がベッドから飛び起きたように弾む。すぐさまハンドルを切って南側の出入口から国道へ出る。ルームミラーの中では真っ赤な炎が立ち昇っていた。


三十一


【9月30日 午後11時0分 芹沢家】


 柱にえ付けられた鳩時計はとどけいせわしなく小窓から顔を出しては、間の抜けた鳴き声を上げている。


 この音を聞くといつも実家にいるという現実を感じさせられた。


 リビングとは名ばかりの団地の一部屋は、千晶も母も『テーブルの部屋』と呼んでいる。


 夕方から浸けておいた水出しのハーブティーが清潔な香りをかすかに漂わせていた。


 秋と呼ぶにはまだ早い、残暑の続く9月の末日。千晶は休みの前日に実家へ立ち寄り母と過ごしていた。息子の泰輝は隣の居間でようやく寝息を立てている。母は千晶のれたハーブティに口を付けるなり鼻を鳴らした。


「歯磨き粉を飲んでるみたい」


「ペパーミントでしょ。マンションの近くにお茶屋さんができたから買ってみた」


「いくら?」


「八百円くらい?」


「高っ! どこのお姫さまですか?」


「いつも母さんが買っている特価のインスタントコーヒーよりはね。でもおいしいでしょ?」


「歯磨き粉を飲んでるみたい」


「まずいなら別に飲まなくていいし」


「おいしいわよ。おいしい歯磨き粉よ」


 母はもう一度口に含んでから椅子の背もたれに体を預けて溜息をつく。千晶はテーブルに肘を突いてあごを載せて、ふてくされたように顔をそむけた。気休めにしかならないが、実家に帰省した時は少しでも体に良さそうなものを与えるようにしている。白米に混ぜる雑穀ざっこく青魚あおざかな由来の油やきのこのサプリメントなど。ただそのほとんどは台所に置いて帰ったままの状態でいつまでも残っている。結局、気休めとは母ではなく、気をつかっているという私自身の安心感ではないかとこの頃は思い始めていた。


「それで千晶、あなた本当に再婚するの?」


 母が大して興味なさそうな口調でぽつりと尋ねる。千晶は肘を突いたまま顔を向けた。


「大丈夫なの? 年下なんでしょ? あの人」


「年齢はしょうがないでしょ。母さんだって喜んでいたじゃない」


「当たり前じゃない。嫌われたらどうするのよ」


「私がいいって言ってんだから、いいでしょ」


「あなたの見立てだから心配なのよ。前だって勝手に決めて、勝手に出て行って……」


「前の人はもういいでしょ」


 千晶はうんざりしたように返す。19歳の時は母にも相談することなく、夫となる愛葉大我と二人だけで話を進めて結婚したような経緯けいいがあった。当時は今よりも母との仲が悪く、なんでも自分一人で決めることが自立の意味と勘違いしていた。母はそのことを根に持っており、未だに千晶を責める際の道具に使う。その結婚が失敗だっただけに、千晶にも言い返す言葉がなかった。


「幸里くんはそんな人じゃないよ。泰輝にも優しいし。あの子にも父親がいると思う」

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