第59話

「幸里……来るよ、もうすぐ」


『分かっている。千晶の車は僕の後ろに回して』


 言われた通りに車を動かし、反対方向を向いたまま戸村の車の後ろに付ける。わざわざ転回して大我の車を待ち受けることはない。しかしまだシフトレバーを【P】に入れてエンジンを止める気にはなれなかった。


 雨の降る静かな国道から、悪魔が絶叫するような急ブレーキの音が聞こえた。


 追いかけ続けてきた前の車が急にいなくなり、すぐ近くに回転灯を光らせてまるパトカーを見つけて大我も全て理解したのだろう。黒い車はバックで道を戻ると、逃走することもなく千晶と同じ出入口からゆっくりと駐車場へ入ってきた。


『千晶、あの車だね。あの金髪の人だな』


「そう……気をつけて」


 幸いにも大我の車も減速したのでいきなり飛び込んでくるようなことはなかった。駐車場のやや離れたところに停車して、こちらを警戒するように、あるいは威嚇いかくするようにエンジン音をうならせていた。片側だけのヘッドライトがギラギラと輝き、大きな衝突痕しょうとつこんと無数の擦過痕さっかこんを付けたボディがまわしき呪いの車を印象付けている。ようやくはっきりと目にしたこの車が、花島常盛を襲って奪い、根岡康樹をき殺し、『プロテア』に放火し、千晶の車を何時間も煽り続けてきた正体だった。


「大我……」 


 戸村の車と二台のパトカーからのヘッドライトに照らされてドライバーの顔もよく見える。ライオンのように長く広がった金髪に、にらみ付けるような大きな目。口髭くちひげ顎鬚あごひげをたくわえた顔は一目で危険人物を思わせた。黒シャツから覗いた右腕は青黒いタトゥーを入れて金色の腕時計を巻いている。数年ぶりに直視した元夫は、やはり二度と会いたくない風貌ふうぼうをしていた。


 パトカーから一人の中年警察官が外へ出ると、警戒しつつ黒い車に向かって何か叫んでいる。しかし大我はにやにやと笑みを浮かべたまま、窓から太い右腕を突き出して中指を立てた。そして左手に握った何かを口に付けて白い息を吐く。電子タバコだろうか。しかし千晶の知識がそれを否定する。覚醒剤のリキッドに浸したタバコを加熱して吸引する方法もあると知っていた。


 青色の車のドアが開き、戸村が外へ出る。彼は自身の車の前に立って大我の車と対峙たいじした。千晶はサイドミラーで二人の姿を見つめながら運転席側のウィンドウを開ける。想像以上に冷たい、山の風雨が車内に吹き込んできた。


「なんだてめぇ! どけろ! 殺すぞ!」


 けたたましいエンジン音に混じって聞こえた大我の怒号どごうに、千晶は思わず体を震わせる。頭上から罵声ばせいを浴びせかけられて、拳で顔を殴られて、腹を蹴りつけられた恐怖がよみがえった。とうに捨てたものと思い込んでいた記憶が、耳と体に残っていたことに気づく。しかしそんな自分の情けなさにも腹が立った。


「もう充分でしょう! 追いかけっこはやめましょう!」


 戸村が大我以上の大声を上げる。雨の中、ヘッドライトの光を受けて広い背中がきらめいていた。


「出てきてください! つまらないことはもうやめましょう! 車から下りて僕と話をしましょう!」


「誰だよてめぇ! 関係ねぇだろうが!」


「戸村幸里です! 芹沢千晶さんの夫です。僕には彼女を守る責任があります!」


「夫? 夫だと? ふざけんな! 俺が誰か知ってんのか!」


「愛葉大我さん、千晶さんの前の夫ですよね? 泰輝くんのお父さんですよね?」


「ふざけたこと言ってんじゃねぇ! 知ってんなら千晶を出せ! ガキも連れてこい! 二人そろってここで土下座させろ!」


「馬鹿なことを……」


 千晶は食いしばった歯の中でつぶやく。恐怖が落ち着くと彼の子供じみた暴言にあきれ、怒り、なぜか恥ずかしさまで抱くようになってきた。私は未だにこんな男を恐れているのか。堂々と立ち向かう戸村にも申し訳ない気持ちになった。


 やはり私が直接会って話をつけるしかない。恐ろしい黒い車は停まり、ドライバーは単なる身勝手な犯罪者となり、悪夢はみじめな過去のリメイクにまで成り下がってしまった。もうこれ以上付き合う必要はない。私の未来を邪魔させるわけにはいかない。面と向かって、私の後ろから消えろと言ってやろう。何かあっても戸村と警察が守ってくれる。今こそ過去と決別すべき時だった。


「千晶さん」


 その時、隣の龍崎が名前を呼ぶ。


 決意を胸にしたまま振り向くと、左の胸の下にナイフの刃が押し当てられた。


「車から下りちゃ駄目だよ。千晶さんはまだこのままでいようね」


「あなたは……」


 千晶は目線を下げたまま体を固める。一体どこに隠し持っていたのか、矢田部を殺害した凶器を所持しているかもしれないと疑っていたが、想像以上の大きさに驚き身がすくんだ。刃渡りは15センチ近くもあり、先が鋭利に尖っている。龍崎はリンゴの皮きナイフと言っていたが、ほとんど短剣と呼べる刃物だった。


「僕も昔と比べると、体も頭もだいぶ鈍くなっちゃった。でもね、千晶さんが何かするよりも早くに、これを肋骨ろっこつの隙間に差し込むくらいのことはできるんだよ。あなたはまだ車から下りちゃいけない。ハンドルをしっかり握って、足の位置を確かめて、いつでもすぐにまた車を発進できるようにしておいてね」


「……殺さないって言った癖に」


「殺さないよぉ。これは僕の言うことを聞いてもらうためにしているだけだよ」


 龍崎は首を振りつつ懇願こんがんするような目を向ける。しかし両手でしっかり握ったナイフは微動だにせず、千晶の心臓を容易につらぬける位置に留まっていた。本当に殺す気はないのか、私が飛び退くより早くに刺せるのか、そんなことは分からない。分かっているのは、彼が女を30人以上殺している怪物だということだけだった。


「……これ以上逃げてどうするんですか。今ここで私に運転させて警察から逃げたって、どうせあとで捕まりますよ。あなたのたくらみみも、もう終わっているんです。どうしてそれが理解できないんですか?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る