第58話

「大変だったけど、充実していたなぁ。自分が生きていることを実感できたよ。それがまさか、あんな一度の失敗で捕まるなんて。千晶さん、人生は分からないものだねぇ」


「……私の質問はどうなったんですか?」


「質問って?」


「あなたは今まで何人殺してきたんですか?」


「ああ……いや、それはちょっと覚えていないねぇ。嘘じゃないよ。幽霊に聞いてもたぶん覚えていない。認知症じゃないんだ。本当に……覚えていないなぁ」


 龍崎はふらふらと手を振ってうっすらと笑う。


「きりがないからねぇ。30人くらいでもう数えるのをやめたよ」


 私の車の助手席にもう一匹、怪物が乗っていた。


「……私も、殺す気なんですね?」


 千晶は正面とルームミラーを交互に見ながら尋ねる。そんな状況にあっても、隣に手を伸ばすことはできない。80歳の老人を取り押さえる手段がなかった。


「千晶さん、次は右に曲がるよ。下りだから気をつけて」


 龍崎は二筋のヘッドライトだけが灯る視界で的確に指示を出す。


「千晶さんを殺すって? どうしてそんなことを思うの?」


「私にそんなことまで話したのは、あとで殺すつもりだからでしょ!」


「違うよお。僕は聞かれたから答えただけだよ。どうしてそんな怖いことを言うの? 殺すわけがないよ。僕を信じて」


「信じられるか!」


「僕は千晶さんを頼りにしてきたんだよ。今日一日、あなたの車に乗って分かったんだ。やっぱりあなたは強くて賢くて、素晴らしい女性だよ。僕が知っている女性の中で二番目に素敵だ。尊敬するよ」


「自分が逃げるために呼んだくせに!」


「ああ、次は左へ曲がって、すぐに右へ曲がる。かなり深いから気をつけて」


 千晶は瞬時に判断して龍崎のナビゲーションに従う。見るより早くに次の対応を取れるので適切に車を進められる。後ろを走る大我の車もやや引き離すことができた。


「千晶さんは僕が今までやってきたことが許せないんだねぇ。分かるよ。僕だってね、これが世間で認められるとは思っていないよ。そのせいで34年間も刑務所に入れられたんだから。僕の性分が誰にも理解されないことはよく分かっている。だから、あなたに嫌われても仕方ないと思っている」


 龍崎は気落ちした声で語る。異常者だ。彼の言葉には悪意が全く感じられない。愛葉大我には自分が悪いことをしているという自覚があった。だから暴力を使って他人を支配し、煽り運転で脅していたぶってきた。何が悪いかを知っているから、相手を怖がらせる手段に使えた。


 しかし龍崎にはそれがない。彼が知る悪とは、他人がそれは悪だと認めている物事にすぎない。だからひた隠しにして、目立つことを恐れ、逃げ続ける必要があった。彼にとって殺人とは、自分が生きるために必要な性分だ。それを奪われることは死を意味していた。


「殺さないなら、私をどうするつもりですか?」


「助けたいんだよぉ、千晶さん。こんなことになったのは、千晶さんのせいじゃないよね。後ろの奴が悪いんだけど、今日僕があなたを呼ばなければ良かったんだ。だから僕の責任でもある。僕が助けないといけないんだ」


「私を助けたら、あなたは捕まりますよ」


「千晶さん……今通り過ぎたのが役場だよ」


「え?」


 いつの間にか周囲の森は後退し、沿道は民家が軒を連ねて、田畑がちらほらと見える村の風景へと変わっていた。街灯の数も増えて店舗の自動販売機の明かりもあり、人の営みが感じられる。この時期は山の緑が遠くまで見渡せる、風光明媚ふうこうめいびな山村の風景が広がっていることだろう。だが暗い雨の降る今は早々はやばやと寝入ったかのように静まり返っていた。


 大きく描いたカーブの右手に、白い照明と赤く波打つ回転灯の光が見えた。


「あそこが名所案内所……」


「良かったねぇ、千晶さん。助かったよ。これでもう心配いらない。あなたの勝ちだ」


 龍崎は嫌味でも恨み節でもなく、心の底から安堵あんどしたようにつぶやいた。


三十


【8月20日 午後7時31分 十津川村 名所案内所】


 右耳のイアホンマイクから着信音が聞こえる。千晶は右目でスマートフォンの画面を一瞥いちべつするなりすぐに応答ボタンをタップした。


『千晶、無事か?』


「見えたよ、幸里。どこから入るの?」


 千晶は夫の言葉にかぶせて尋ねる。大我の車とはやや距離を空けられたが、減速して出入口を探している時間まではなかった。


『建物の前に広い駐車場がある。出入口はそっちに近い北側と南側に一箇所ずつあって、その間は低いブロック塀が立っている。分かる?』


「分かる。じゃあ北側から入る。危ないから場所を空けておいて。人も近づかないで」


『了解。車道は広くなっているから左に寄って大回りできるはずだよ』


 戸村は千晶の運転を想像して指示を出す。こういう時に前置きなく話ができるので夫婦は助かる。いや、大我とこんな話ができるとは思えないので、戸村のお陰だろう。


「車が揺れますから、気をつけてください」


 千晶は電車の車内アナウンスのような冷たい口調で龍崎に伝える。こんな殺人鬼がどうなろうと知ったことではない。しかし何かの拍子に逆上して襲いかかってくるかもしれない。いや現時点では、少なくとも彼は自分に危害を加える意思はないと思う。いずれにしても、自分の運転で誰かを傷つけたくはない。矛盾するさまざまな思いから出た一言だった。


「行きます」


 名所案内所の入口が見えるなり、千晶は車を大きく左に寄せる。そして急ブレーキを踏みながらハンドルを切り、車体の後部を滑らせて進入した。広い駐車場の左側には、戸村の運転する青色のSUV車と二台のパトカーがこちらを向いて駐車していた。


 名所案内所は二階建てのコンクリート製建築物で、外観の古さや窓の多さから見ても、龍崎が言った通り元は小学校だったものを再利用しているようだ。建物や駐車場には照明が点いているが、他に人の姿はない。目印として今だけ特別に点灯してもらっていた。


『ナイスターン。さすがだな。やっと会えたね』


 戸村の頼もしい声が右耳から聞こえてくる。しかし千晶はまだ溜息をつけない。

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