第63話

「なんですか、これ……」


「千晶さん、車を下りようかぁ。エンジンはかけたままにしておいてね」


「あなたはまだ……」


「僕、もうあまり体も動かないし、今は凄く疲れちゃった。だけど、千晶さんが動くよりは早くあなたの首を切れるよ」


「外に出て、どうするんですか?」


「後ろの男の目当ては千晶さんでしょ?」


「大我に私を殺させて、その隙にこの車で逃げるんですか?」


「どうかなぁ。車の運転なんてもう何十年もしていないからなぁ。僕、オートマチック車だって経験ないんだよ。それ、左足が勝手に動いちゃいそうだね」


 龍崎はナイフを突きつけたまま柔和にゅうわな笑みを浮かべる。問題ないだろう。車の動かしかたなど何十年前からほとんど変わっておらず、むしろ簡単になっているはずだ。細かい操作もずっと助手席から見ていたのだから、分からないはずがない。それに認知症も今は極めて落ち着いていた。


「千晶さん、今日は一日お疲れさま。こんなことになっちゃったけど、僕は本当に楽しかったよ。あなたに会えて良かった。できれば最後まで一緒に行きたかったよ」


「……逃げられませんよ、こんなことをしたって」


「車を下りたら斜面に立って待ち受けるんだ。そこならいきなりぶつかってくる心配もないと思う」


「さっさとぶつけて殺してもらったほうが、あなたにとってはいいんじゃないですか?」


「……千晶さん、もし無事に生きびられたとしても、僕のことは警察に黙っておいてね」


「話すに決まっているじゃないですか。黙っていることなんてできませんよ」


自暴自棄じぼうじきになっちゃいけないよぉ。最後まで諦めないで。そして助かった命を大切にするんだ。警察に話したら……また僕とドライブすることになるよ。僕はずっとあなたを見守っているからね」


 龍崎は矛盾した話を終えるとナイフの先を振ってうながす。千晶は深く溜息をつくと、ゆっくりドアを開けて車外へ出た。ようやく出られた外の世界は、雨が降りしきる深い森の入口だった。大きく枝葉を広げた木々のお陰で雨はしのげたが、それ以外には絶望しか存在しなかった。


 急ブレーキの音とともに、大我の車が目の前に停車した。


 赤いテールランプがその場で留まっているのを見て状況に気づいたのだろう。一つ目の怪物は千晶の車をにらんでいるが、運転席の大我は外に出た千晶の姿に気づいていた。窓を開けると肩を出して、その上に頭をかたむけて乗せた。


「よぉ! 誰かと思ったら千晶じゃねぇか! どうしたぁ? しくじったのかぁ?」


「どうして、私を追いかけてくるの。あなた、一体何がしたいのよ!」


 千晶は拳を握って叫ぶ。体の震えが止まらないのは恐怖によるものか、怒りによるものか、疲労と寒さによるものかも分からなくなっていた。大我は勝ち誇った笑みを浮かべている。獲物を捕らえた肉食獣の顔。罪の意識など微塵みじんも感じていない邪悪な表情だった。


「あぁ? 何がしたいって? 決まってるだろ。てめぇが迎えに来ないから、代わりに俺がきてやったんだ!」


「どうして幸里を……他のみんなを襲ったのよ! 恨みがあるのは私だけでしょ!」


「てめぇに分からせるためだ! 自分のしたことを反省して、俺の元に戻ってくるように! 飼い主さまがしつけけてやったんだろうがよぉ!」


「あなたのところになんて、戻るわけがない!」


「だったら、これからもてめぇに近づく奴らを殺し回ってやるよ! てめぇのせいでみんなが死ぬだけだ!」


「できるわけない! これからあなたは、また刑務所に戻るんだから! もう二度と出られない!」


「ああそうか! じゃあお前も道連れにしてやるよ。他の男のところへ行かないように! 今ここで殺してやるよ!」


 大我はそう言うと車をバックさせて千晶の正面に向けてエンジンを吹かす。ずっと私を追いかけてきた、あの黒い車。血に飢えた四輪の猛獣に追い詰められた。千晶は飛び退きそうになる足に力を込めて、その場で必死にとどまった。


「そんなことしたって、私はもう怖がらない。殺すなら殺せ!」


「お前のあとは泰輝も殺すからな」


 その大我の一言に体が硬直する。


「なんで……なんで泰輝まで殺すの? おかしいでしょ!」


「あぁ? 同罪だろうが。馬鹿な女と一緒に俺のところから逃げたんだからよ!」


「何言ってんのよ! 泰輝は……あなたの子供なんだよ!」


「関係ねぇよ。あんな出来損できそこない。もういらねぇよ」


 大我は一言ごとにエンジンを吹かす。本気だ。この男は本当に泰輝まで殺すつもりだ。警察がそれまでに逮捕できるかどうかなんて分からない。幸里のように、これからの私のように、泰輝が走る凶気に殺される。それだけは絶対にえられない。


「待って……」


 千晶が思わず手を伸ばす。大我が笑ってブレーキから左足を離した。


 その瞬間、千晶の車が斜面をバックして大我の車に激突した。


「え?」


 千晶は手を伸ばしたまま声を上げる。大我の車は左フロントに衝撃を受けて回転し、山の斜面に立つ千晶にほぼ背を向ける。そのまま爆発的な加速力で飛び出すと、ガードレールを突き破って崖の下へと転落した。同時に急後退した千晶の車もコントロールを失ってそのまま下がり続けてガードレールに激突する。それでも進行は止まらず、同じく崖の下へと落ちていった。


 轟音ごうおんが深い山に鳴り響き、やがて静寂せいじゃくが訪れる。


 千晶は力尽きて腰を抜かすと、気を失ってその場に崩れ落ちた。

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