第56話

二十九


【8月20日 午後7時18分 国道168号線】


「彼はねぇ、僕ととてもよく似ていたんだ。考え方は違ったけどね。ああ、持っているものも違ったねぇ。金持ちだったよ。家もあって車もあって。みんなから好かれていて。あれ、僕と全然違うや。おかしいなぁ」


 龍崎は淡々たんたんと一人語りを続けている。千晶は運転に集中しながら、ただ左耳だけを向けていた。


「似ているところもあったんだよ。身長とか体重とか。同じ奈良の出身で、お互い独身で家族や親戚はいなくてね。僕の場合はみんなに捨てられちゃったんだけど、彼はどうだったかなぁ。でもこの歳になるとそういうことは聞かないほうがいいよねぇ」


「一緒に住んでいたんですか? 龍、あなたは……」


「ううん。僕は近くのアパートに住んでいたよ。刑務所を出たからって完全な自由になるわけじゃないんだ。ちゃんと真面目に生きているか、悪いことをしていないか、報告しなきゃいけない。だから警察に信頼されている人が側にいると色々と助かるんだ。彼から定期的に訪問を受けてね。でも彼はそんな刑務官みたいに監視していたわけじゃないよ。やあ、ちょっと一緒にお酒でも飲みませんか、とか言ってくるんだ。本当に、優しい人だったよ」


 龍崎の懐かしそうな声が聞こえる。


「だけど、彼、認知症になっちゃった。3年ぐらい経ってからかな。色々と分からなくなってきたって言ってね。独り身はこういう時は怖いもんだ。だって身の回りのことができなくなるからね。僕は今も怖い。幽霊に体を乗っ取られるんだから」


 千晶は話を聞きながら頭の混乱を感じている。彼って誰? 僕って誰? 彼とは龍崎のことで、僕と話す龍崎は、龍崎ではない。まるで自分にまで認知症が発症したかのように、彼我ひがの区別が付かなくなっていた。


「だけど彼は立派だったよ。きちんと自分の始末を付けた。こういう事情だからボランティア活動を引退して、皆さんとのお付き合いもご遠慮させていただきますって宣言して、世の中との関わりも綺麗きれいさっぱり、すっぱり切った。入る老人ホームも自分で選んでね、手続きも済ませて、死ぬまで面倒を見てもらえるだけのお金も用意した。凄いねぇ、なかなかできることじゃないよ」


「それで紀豊園に……」


「だから本当に、感謝してもしきれないんだよ、僕は」


 さらりと、龍崎は背筋の凍るような言葉を口にした。自らの認知症に覚悟して、いち早く身辺整理をこなして、いさぎよく世間から身を退しりぞいた、龍崎善三。しかし今、助手席に座っているのは彼ではなかった。


「入れ替わりなんて……本当にできるんですか?」


「できたねぇ。千晶さん、人間というのはね、書類で見分けているんだよ。刑務所だと番号だったね。必要な物さえ揃っていれば、細かいところなんて気にしないんだ」


「だけど、見た目が違うじゃないですか」


「僕たちは体形もよく似ていたんだよ。それでもあまりに写真と別人だと見つかちゃうから、ちょっとは似せたよ。高齢者の整形も近頃は流行はやっているみたいだね。若い先生からは、そのままのほうが男前ですよと言われたけど、こっちの顔も愛嬌あいきょうがあっていいよねぇ」


 龍崎は団子鼻を鳴らして楽しそうに語る。


「あとは僕の家で彼を殺して、首つり自殺に見せかけてしばらく放置して、ほどほどにいたんでから警察を呼んで処理してもらったんだ。長年刑務所に入っていた爺さんが自殺したって、誰も怪しいだなんて思わない。書類に死亡日が書かれて、はいサヨナラだったよぉ」


「どうして、そんなことを……」


「無期懲役囚の釈放って、ずっと仮釈放なのよね。何かあればすぐに刑務所へ戻される。車の違反で捕まっても無期懲役に逆戻りする。だから僕は車の運転もできません。それじゃ、やっぱり不便だよねぇ」


「車の運転がしたいから、あなたは龍崎さんを殺したんですか!」


「ところがねぇ、なんと僕まで認知症になっちゃった」


 龍崎が右手の甲で額を叩く音が聞こえる。


「嫌な予感はしていたんだよねぇ。なんだか物忘れが多くなったり、なんでもないところで足がつまずいたりして。これ、彼が言ってたことと同じじゃないかなって。そのうち、あの狭い施設の中で迷子になるし、とうとう怖い幽霊まで出てくるようになっちゃった。参ったよ、こんなところまで似るなんてなぁ。それで僕、もうあの犬の檻から出られなくなっちゃった」


「認知症になっても、紀豊園から出たかったんですか?」


「いやぁ、もう半ば諦めていたよ。だって出たってどうしようもないからねぇ。訳が分からないまま野垂のたぬのも嫌だし、警察に保護されて身元を追及されたらたまらない。少なくとも老人ホームにいる限りは飢え死にすることはないでしょ。だからもう、あそこで人生を終えるのも仕方ないかなって思っていたんだよ。たくわえもあるしね」


「それは龍崎さんのお金です……」


「それなのに、あの女が、矢田部がきたんだよぉ」


 龍崎は額の上で手を止めると、うんざりしたようにぼやく。


「あの女のせいで、結局僕はあそこから出なきゃならなくなった。せっかく余生よせいを送るつい棲家すみかを受け入れたのにねぇ。また殺す羽目はめになっちゃったよ」


「……殺さなくたって、良かったじゃないですか」


 千晶はアクセルとブレーキを激しく使い分けながら言い放つ。山道はつづら折りになり一瞬たりとも気が抜けない。その緊張感が助手席に座る殺人犯への怒りに変わった。


「あなたは自分勝手過ぎます。なぜ龍崎さんを裏切ったんですか? なぜ矢田部さんの虐待ぎゃくたいを若槻さんや他の人に相談しなかったんですか?」


「ああ、若槻さんもいい人だねぇ。ちょっと口うるさいけど、放っておいてくれるから気楽でいい。他の人もそこまで嫌な人はいなかった。だから3年もいられたんだ。あの女が来るまではねぇ」


「それなら、殺さなくても方法はあったはずです。あなたは自分で自分を追い込んでいるだけです。せっかく釈放されたのに、真面目に服役ふくえきしていたのに、どうしてまた人を殺して解決しようとするんですか?」

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