第55話

 裏切られたからといって、心まで離れたわけではない。隣に龍崎がいなければとっくに大我の餌食えじきになっていた。彼に励まされて勇気付けられたから、ここまで生き延びることができた。彼は真の悪人ではない。虐待の被害者であり、認知症を患った80歳の高齢者だ。正しく罪をつぐなわせることが自分からの恩返しだと思った。


 しかし龍崎は、手の甲で自分の額をとんとんと叩きながら首を振った。


「嬉しい話だけどねぇ。でも僕は警察に捕まりたくないんだよ」


「どうして……」


「やっとね、やっとだよ、やっと自由になれたんだ。それをね、僕はもう手放したくないんだよねぇ」


「自由……紀豊園から出られたことですか? だけどそれは」


「紀豊園じゃないよ……刑務所からだよ」


「刑務所?」


 千晶は勢いよくハンドルを切る。タイヤが横滑りして寒気が背中に伝わった。雨のせいでタイヤのグリップ力が落ちている。いや、龍崎が何を言っているのか分からない。


「34年だよ。34年」


「分かりません。なんの話ですか? 龍崎さん」


「34年間、僕は刑務所に入っていたんだよ」


「え?」


 振り向きそうになる首を必死で抑えて声を上げる。龍崎は何を言っているの? 今、どんな顔をしているの?


「昔、ちょっとしたことで警察に捕まっちゃってねぇ。無期懲役を食らったんだよ。それからずっと、僕は刑務所で過ごしてきたんだ」


「な、なんの話をしているんですか?」


「毎朝番号で呼ばれてね。体操をして、仕事に向かうんだよ。難しい仕事じゃなかったけど、面白くもなんともなかったなぁ。うまくもない飯を食わされて、綺麗じゃない風呂に入れられて、時間が来れば寝かされて。悪くないって人もいたけど、僕は本当に辛かった。何もかも監視されて、何もかも決められて。自分が死んでいくような気がしたよ」


 龍崎は額を叩く手を止めて、思い出したように、ああ、とつぶやいた。


「だから僕は紀豊園での生活も嫌だったんだなぁ。刑務所での生活を思い出すから。あっちが猿のおりなら、こっちは犬の檻だ。頼めば散歩に連れて行ってもらえるから、まだましだよねぇ」


「ちょっと待って。分からない。私、龍崎さんのお話が分かりません」


 千晶は龍崎の思い出話に横入りする。脳の九割を車の運転に使っているので冷静を保っていられる。しかし残りの一割だけでは理解が追いつかなかった。


「いきなりなんのお話ですか? 刑務所に入っていたって、無期懲役って、誰の話をしているんですか?」


「僕の話だよ。みぃんな、僕の話」


「どうして龍崎さんが警察に捕まっているんですか?」


「人を殺したからだよ。3人? 4人? いや……」


 龍崎は平然と答える。冗談で話しているのではない。とぼけている風でもない。今までと変わらない口調で、殺害した人数を真面目に数えていた。


「うん、3人だね。夫婦とその子供の一家3人。職場の……僕は東大阪で働いていたんだけどね、そこの社長一家を皆殺しにして山に捨てたんだ」


「嘘ですよね?」


「殺して捨てたところまでは良かったんだけどねぇ、逃げる途中で捕まったんだよ。しかも人殺しじゃなくてスピード違反で。ついていないというか、こんな風に終わるのかぁって思ったよ」


「東大阪の一家を山に……」


 千晶の脳が高速で回転する。知っている、私はその話を知っている。40年ほど前に箕面みのおの山奥で見つかったバラバラ死体。被害者は東大阪で印刷所を経営する一家。犯人はそこに勤務する従業員で、逃走中にスピード違反の取り締まりを受けて捕まった。


 遥か昔に聞いた、実際に起きた事件を扱った映画のシナリオだ。私はその映画への出演に誘われていた。恐るべき殺人鬼の隣に寄り添う悲劇のヒロイン。だがそんな女は実在しない。現実の犯人は無期懲役の判決を受けて刑務所に収監しゅうかんされた。


「『ナニワのバラシ屋』、陸田國春りくたくにはる……」


 千晶がその名を告げると、龍崎は、へえぇと驚いた声を間延まのびさせた。


「よく知っているねぇ。そんな古い名前を……お母さんから聞いたの?」


「ネオが……昔の店の客が話していました」


「ああ、心斎橋のお店かぁ。ということは、他にも何か話していたの?」


「い、いえ、それは……だから、一体なんなんですか?」


 千晶は混乱する思考に苛立いらだつ。龍崎の真意が読み取れない。


「その人が、龍崎さんとなんの関係があるんですか?」


「ボランティア活動をしていたんだ。刑務所で受刑者の相談を聞いたり、社会復帰を支援したりする団体に所属してね。一円ももらえないけど、人を救うことは自分を救うことにもなると信じていて、鉄道会社を定年退職したあとの甲斐がいにしていたんだよ」


「それは聞いています。受刑者の相談を聞く活動は知りませんでしたが。ということは、そこで知り合ったんですか?」


「最初はいつも文通から始まるんだよねぇ。拝啓はいけい、わたくしは……って。堅苦かたくるしくて嫌になっちゃうけど、礼儀は大切だよ。どんなにおかしな奴かと思ったけど、面会してみるとなかなかいい男でね。あっちも気に入ってくれて仲良くなった。僕らは同じ歳だったんだ」


 龍崎は昔を思い出すように懐かしげに語る。


「だから出所が決まった時は嬉しかったよ。無期懲役の受刑者はめったに釈放されないからねぇ。毎日真面目に過ごしていたことと、外から支援してくれる人がいたことで認められたんだ。その時ばかりは僕も泣いたなぁ。出られるとは思っていなかったからね」


「出所? 刑務所を出たんですか?」


 千晶は違和感を抱いて聞き直す。かつて根岡から聞いた話とどこか違う。確か、映画のリアリティを求めていた彼も実在する殺人犯との面会を望んでいた。しかし一足遅かったと言っていた。


「その人は、もう亡くなったと聞いていましたが……」


「そう、死んじゃったねぇ」


「じゃあ出所したあと、龍崎さんが支援されている時に……あ!」


 千晶は慌ててブレーキを踏んで反射的にハンドルを切り、すぐにアクセルを踏み直す。沿道の木々がカーブの先で道路上にまで迫り出しており、ふいに現れた枝にフロントガラスを激しく打ち付けられた。大我の車も同じように枝の急襲を受けて減速する。一瞬の油断が大事故に繋がりかねない。


 だが、千晶が声を上げたのはそのことではない。


 龍崎の話す真相に気づいて驚いたのだ。


「うん、だからねぇ、そういうことなんだよ、千晶さん」


 龍崎が隣からつぶやく。あくまで口調は柔らかく、穏やかに聞こえる。その姿もきっとこれまでと変わらずシートに小さく腰かけて、ダッシュボードの上で激しく首を揺らしているカエルのマスコットを見つめているのだろう。


「僕の話だよ。みぃんな、僕の話」


「……入れ替わったんですか? 龍崎さんと」


 隣からの返答はない。彼が黙ってうなずいても、首を振っても、千晶に振り向いて顔を見る余裕はなかった。

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