第54話

「龍崎さんがご自分で認めていました」


「そう……なんとなくねぇ、頭の片隅に残っているんだよ。余計なことを喋ったんじゃないかって。でもそれを千晶さんに尋ねることもできないでしょ? 本当に、厄介なんだよ、この幽霊は」


「矢田部さんを、殺したんですか?」


「きのうの夜だねぇ。ちょうど夜勤だったんだよ、あの女。だから夜中に呼び出してナイフで刺しちゃった」


 こともなげに龍崎が答える。


「ナイフは持っていたんだ。認知症が悪化すると刃物まで取り上げられるけど、僕はまだ許されている。リンゴをきたいからね。ナイフは持っていたんだ」


「どうして……」


「あの女が悪いんだよ。毎日僕を殴ったり蹴ったりして。虐待ぎゃくたいされていたんだ。お腹は見せたよね? 僕のお腹、火傷やけどだらけでしょ。僕が何かに失敗したらタバコの火を押し付けられるんだ。ひどいもんだよ」


「でも、殺すほどでは……」


「さぁ、どうかなぁ」


 龍崎は疲れた声でとぼけるように返答する。前に見せた、世の中の全てを憎んでいるかのような怒号どごうはあげない。今までと変わらない口調で、異常な真実を語っていた。


「でも、殺すならその時しかなかったんだよ」


「その時って、きのうの夜に一体何が?」


「今日、千晶さんが迎えにくる予定だったからねぇ」


 龍崎の言葉に千晶は言葉を失う。老人ホームに入居する彼は自由に動き回ることができない。認知症をわずらっているため、どこへ行くにも必ず介護士か介助する人間を付ける必要があった。そのため矢田部の殺害も施設内の自分の部屋でしか行えず、死体を持ち運ぶこともできないのでベッドの下に隠すしかない。当然、そんな行動は悪戯いたずらを隠す子供と同じ小細工に過ぎず、せいぜい事件の発覚を遅らせる程度でしかなかった。


「……私を使って、紀豊園から逃げ出すつもりだったんですね」


「千晶さんに会いたかったんだよぉ」


 今日、千晶は実家に帰省きせいした戸村の代わりに紀豊園を訪れて、龍崎の送迎をった。予定は一か月も前から決まっており、龍崎にも伝えられていたはずだ。殺害した矢田部の死体が見つからなければ、介護タクシーを使って紀豊園から逃走できる。発覚を遅らせる意味はそこにあった。そして何も知らずに迎えに来たドライバーも、体力がありそうな男の戸村より千晶のほうが扱いやすいと考えたのだろう。


 裏切られた、という思いに怒り以上の失望を覚える。龍崎が矢田部を殺したのは誤解でもなければ認知症による暴走でもない。前もって準備をしておいた計画的な犯行だった。千晶はそのための道具として利用されていた。運転技術を褒め、煽り運転を恐れ、危険だと言って車から降りるのを阻止したのも、全て自分の目的を遂げるためだった。彼は絶対に紀豊園へ帰るわけにはいかなかった。


「あなたは……」


「あ、危ないよ、千晶さん、前」


 龍崎がかすれた声を上げる。迂闊うかつに進入したカーブが予想以上に鋭角えいかくなため急ブレーキを踏んで車体を滑らせる。川沿いのガードレールが真正面に迫るが、触れる寸前で切り抜けて体勢を整えた。


 ぞっ、と背中に冷たい気配を感じた。


 千晶は慌ててアクセルを踏み込む。真後まうしろを走る大我の車が危うく追突しそうな距離まで近づいていた。龍崎の衝撃的な告白を受けて現状を見失いかけたが、背後の恐怖は未だ続いている。カーブとアップダウンの激しいこの山道では大我も車の性能を発揮しきれず、アクセルワークとハンドリングを駆使して近づくしかない。しかし決して離れることはなく、千晶が運転をしくじると途端に牙をいて襲いかかってきた。


「気をつけて、千晶さん。それにしても……まさかこんなことになるとはねぇ」


 龍崎の溜息が聞こえる。皮肉にも、彼の逃走計画を阻止したのは、今も後ろで煽り立てる愛葉大我の車だった。奴のせいで千晶は予定のルートを外れて走り続けることになり、龍崎は車を停めさせることも、車外へ逃げ出すこともできなくなった。そして、これから向かう先では警察が待機している。彼もまた千晶とは異なる解釈で絶体絶命の状況に置かれていた。


「龍崎さん、早まらないでください」


 千晶は奇妙な緊張感の中で話す。助手席に殺人者が座っている。しかし今、彼から危害をこうむることは絶対にない。手を伸ばせばすぐ届く距離にいるが、もしも千晶が運転を誤れば自分の命も危ういと龍崎も理解しているはずだ。道の左側のガードレールを越えると急激な斜面を下って広い川へと繋がっている。右側は山を切り崩した高い土壁が続いていた。


「名所案内所で警察が待っているのは本当です。でも、それは大我を捕まえるためです。龍崎さんのために呼んだんじゃありません」


「同じことだよねぇ。危ない目にったからって見逃してもらえるはずがない。僕も一緒に捕まるに決まっているよ」


「それは仕方ないです。でも龍崎さんは逃げちゃ駄目です」


「捕まると刑務所に入れられるんだよ」


「逃げたって……いつかは捕まるじゃないですか。その時はもっと刑が重くなりますよ。私は知っているんです。龍崎さん、きちんと犯罪を認めて警察に従いましょう。いい人ぶって言ってるんじゃないです。これ以上罪を重ねないためにも、それが一番いい方法なんです」


 千晶は親身になって説得する。大我が警察に逮捕された際、犯罪と刑法については一通り勉強している。結局のところ、自ら警察に出頭して自首することと、犯罪を包み隠さず自白することが、犯罪者にとっては最良の手段だと知っていた。


「龍崎さんは矢田部さんからの虐待にえかねて、ナイフで刺して殺してしまったんですよね? それはいけないことだと思いますが、そうせざるを得なかった理由もあります。ずっと暴力を振るわれて暴言を浴びせられて、誰にも相談できなかったんです」


「目立ちたくないんだよねぇ、僕は。ひっそり、こっそり生きていたいんだよ」


「私も……そんな目に遭ってきました。だから相談したくない気持ちも、殺したくなる気持ちも分かるんです。警察だって裁判所だって、それは理解してくれるはずです」


「ああ、優しいねぇ、千晶さんは」


「だから私も協力します。今日も龍崎さんは予定通り私の車に乗ってお墓参りに行こうとしただけです。それを大我に狙われて、今まで追いかけ回されているんです。龍崎さんは逃走しようとしたわけじゃありません。私が証言します」

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