第53話

「そう……うん、そうだね。それでいいと思うよ」


 千晶は口籠くちごもりつつ短く返答する。余計なことは言わなくていい。戸村は全て分かってくれていた。


「ありがとう、幸里。君がそこまでしてくれていたなんて思わなかった」


『千晶に鍛えられたお陰だよ。僕の性格だとすぐにでも駆けつけたいけど、僕だけ行ってもどうにもならない。千晶のように落ち着いて考えて、とにかく助ける方法を探したんだ』


「私は何もしていないよ。私一人じゃ何もできなかった。逃げることしか……」


 千晶は悔しさと自分の不甲斐ふがいなさに唇を噛む。もっと早くに動いていれば、煽り運転に対応していれば、こんなに追い詰められることはなかった。車を降りて逃げることも、警察署へ駆け込むことも、もっと早くに電話で助けを求めることもできた。降りかかった災難の重大さに気づけなかったことと、暗い過去を知られたくないという思いが、この誰もいない夜の道で逃げ続けなければならない状況を招いてしまった。もう車から降りることもできない。結局、自らドアをロックしてしまったのだ。


『千晶、安心しちゃいけない。168号線を走っているならそろそろ山道が始まる。信号はほとんどなくなるけど、カーブと起伏が多くなるから気をつけて。電話はこのままのほうがいい?』


「うん……いや、もう切ってもいいよ。集中するから」


『分かった。僕は名所案内所で待っている。そこまでは頑張って、千晶』


 右耳から戸村の声が途切れる。千晶は唇だけで幸里と名前をつぶやいた。この夜道の先で夫が待っている。ここを切り抜ければもう走らなくていい。その思いが勇気を高めてくれる。ゴールが見えた。あとはそこへ向かうだけだった。


「千晶さん、そこは左の道へいけばいいよ」


「はい」


 龍崎が二股に分かれた道の片方を示す。カーブに沿った道なりだが、こちらのほうが細く木々に隠れているので見間違える可能性があった。道の先はさらに民家が少なくなり、閉店したまま放置された古いガソリンスタンドのあとには急峻きゅうしゅんな坂道と深い森が始まった。


「ああ、そうだ。ここから森になってくる。暗くて深い山の森。この先にはもう何もないよ。何も……」


「かなり続くみたいですね。車が揺れますので気をつけてください」


「今の電話は戸村くんだよね? 幸里くんというのか。いい名前だねぇ」


「そうですね、彼も気に入っているようです」


「彼はなんて? 本当に十津川へ向かっていいの?」


「はい。名所案内所で待ってくれているそうです」


「名所案内所……ふぅん、そんなのあったかなぁ」


「役場や病院を越えた先にあると聞きましたが」


「ああ、小学校ならあったね。コンクリート製の立派な建物だった。何十年も前の話だけどねぇ」


「もしかすると、その校舎を名所案内所にしているんじゃないでしょうか」


 過疎化かそかや移転などによって使われなくなった古い校舎を改修して、観光施設や図書館などに再利用している地域は珍しくない。建物が頑丈で住民の思い入れもあるので残しておく場合も多いのだろう。


「私は行ったことありませんが、見ればすぐに分かると言っていました」


「……でも、戸村くんはそこでどうするの? 後ろの車を止めてくれるの?」


「そう……ですね」


「どうやって?」


「あの、あまり喋っていると危ないので」


 千晶はアクセルとブレーキを細かく使い分けながら、ハンドルを素早く切ってカーブを切り抜けていく。道幅は対向する二車線になったり一車線に狭まったりと安定しない。夜の闇に紛れたカーブミラーも雨に濡れてほとんど機能していない。そんな悪路あくろを命知らずの速度で走り続けていた。


「ねぇ、千晶さん」


 龍崎は左右へ振られる体をシートにゆだねてしのいでいる。千晶は返事もせず運転に注力していた。


「千晶さん」


「はい、なんですか! どうしましたか?」


「戸村くんはどうするつもりなんだろう。後ろの車を止めることなんて本当にできるのかな?」


「それは……」


「もしかして、僕たちのことを分かっていないんじゃないかなぁ? 単に迎えに行けば良いと思っているとか。そしたら危ないよ」


「いえ、状況はよく分かっているはずです」


「それならどうやって……何も教えてくれなかったの? 千晶さんは心配じゃないの?」


「説得してくれるそうです。車から降りてもらえたら話し合えるはずだと」


「一人で?」


「いえ……何人か集めてくれているそうです」


「何人か?」


「そうですね。一人では危ないですから。みんなで止めればさすがの大我も……」


 千晶は大きくハンドルを切るとほとんど減速せずに鋭角えいかくなカーブを曲がる。二の腕と脇腹に筋肉痛が走って思わず顔をしかめた。龍崎はそう、と短く返すと、わずかに腰をひねってこちらを振り向いた。


「ねぇ、千晶さん」


「龍崎さん、今は本当にお喋りしている場合では……」


「あなたは、もう知っちゃったんだね。僕のことを」


「え? 何を……」


「僕があの女を、紀豊園の矢田部を殺しちゃったことだよ」


 ぞくりと、左耳から寒気が伝わり全身に広がる。


 千晶は振り向くこともできず、ただ隘路あいろを見つめる目だけを大きくさせていた。


二十八


【8月20日 午後6時58分 国道168号線】


「名所案内所で待っているのは警察だね。戸村くんが仲間を集めたわけじゃない。そんな説明を聞いても千晶さんが安心するはずがないもの。僕に隠しておきたかったんだねぇ」


 龍崎はこちらを向いていた体を戻してシートに座り直す。車の動きが激しいので無理な体勢を保つのは困難だった。


「そうかぁ、もう知っていたんだねぇ。僕が喋っちゃった? それとも紀豊園の人が電話をかけてきたんだっけ?」


「……どちらも、です」


 千晶は正面の道を見えたまま、つぶやくように告白する。隣を向いている余裕すらない。龍崎に意識の全てを向けている場合でもなかった。

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