第51話

 千晶は戸村の顔を見られずにうつむく。彼が明るい未来の展望を語れば語るほど、自分に後ろめたさを抱いてしまう。付いて行きたいと願っても、彼の未来を壊してしまうかもしれないという不安が足枷あしかせとなって一歩踏み出す勇気が持てない。どうしてもっと早くに出会えなかったのかと悔やむ一方で、最愛の息子に出会えたこの運命も決して否定したくない。心の矛盾むじゅんに縛られて、気持ちはその場で立ち尽くしていた。


「千晶さん……泣いているの?」


 戸村が近づくのを気配で感じる。


「僕がこんな話をしたのがいけなかった? 君を困らせるつもりはなかったんだけど」


「そうじゃない」


 千晶ははなをすすって顔を上げる。


「私は……幸里くんが思うほど、いい人じゃないから」


「そんなことは……」


「幸里くんに隠していることも一杯あるんだよ。昔から失敗ばかりして、ひどい目にったり、遭わせたりして。本当の私は、どうしようもない女なんだよ」


 元夫の愛葉大我のことや大阪のキャバクラで働いていたことは彼に伝えていない。あえて話す必要もなければ、彼が尋ねるようなこともなかったからだ。しかし結婚するからにはきちんと話しておかなければならない。隠し続けることは彼への裏切りに思えた。


「幸里くんの話は本当にいいと思う。実家へ帰って親の面倒を見ながら、地域のために介護タクシーをやるなんて素敵だよ。尊敬するよ。私も応援する。でも……そこに私はいないほうがいいよ」


「千晶さん、それなら、どうして泣いているの?」


「だって……幸里くんのためを思ったら、私たち、もう付き合わないほうがいいから……」


「千晶さん」


 戸村は膝に置いた千晶の手を握る。


「僕は今の話をしているんだよ」


「今の……」


「今の話と、これからの話だ。昔の話じゃない。過去の失敗なら僕も千晶さんにいっぱい隠している。でもそんなことは気にしない。千晶さんと結婚したい気持ちに変わりはないから」


「幸里くん……本当にいいの?」


 千晶は戸村の顔をじっと見つめる。そこには先ほどまでの不安さは綺麗にぬぐい去られていた。彼が周りに安心感を与えて明るい気持ちにさせてくれる理由が分かった気がする。彼は決して暗い過去を振り返らない。今とこれから、現在と未来だけを見て生きている。だからいつもほがらかに過ごせて、子供のようにまぶしい未来を想像できるのだろう。それは老い先を諦めきった高齢者も、過去を引きずった女も求めている心の強さだった。


「そろそろ下校の時刻だ。帰ろう」


 戸村は離した手でスイッチを押してエンジンを始動させる。辺りの空気が気配を変えて緊張感が車内に伝わった。ファンベルトの小気味こきみよい回転音が窓から入って耳に届く。車体の微振動が体に伝わり胸を高ぶらせた。


「千晶さん、これからは僕と一緒に生きていこう。幸せにできる保証はないけど、そのほうが絶対に楽しいよ。もちろん泰輝くんも一緒だ。僕に堂々と、妻と息子ですって名乗らせてほしい」


「……後悔しても知らないよ?」


「絶対しないよ。君にもさせない。前だけ見てれば、後ろは見えない」


 戸村は何かの歌詞のようなワンフレーズを嬉しそうに口ずさむ。千晶は目を閉じてシートに深く身をゆだねた。車は深い森に囲まれた自動車道を駆け抜けていく。彼と一緒に、もう一度未来を思い描いてみようと決めた。


二十七


【8月20日 午後6時45分 国道310号線】


 高速道路を下りた先は山裾やますそによくあるひなびた街並みが広がっていた。敷地の広い平屋の家屋かおくが建ち並び、シャッターを下ろしてから何十年も経ってそうなパン店が、色せて文字の抜けた看板もそのままに残っている。小さな田畑のすぐ裏には木々の茂る小高い山が盛り上がり、赤くびの浮いたトタン屋根の納屋なやがぽつりと建っている。チェーン店の外食店やスーパーマーケットは都会と変わらない外観を見せているが、駐車場はバスが停車できるほどの広大な敷地が確保されていた。


 千晶は以前に訪れた山林のキャンプ場へ向かう道程を思い出す。あれは奈良と京都の県境けんざかいあたりだろうか。夏のさかりに泰輝と一緒に、戸村が運転する青色のSUV車に乗って道すがらにこんな風景を目にしていた。人間と自然が共存している、のどかで光あふれる落ち着きのある街並み。泰輝も興奮した様子で窓から外を眺めて、戸村は実家のある村の感じに似ているなぁと楽しげに目を細めていた。


 これといって、何があったわけでもない光景。だが千晶にとってそれは、かけがえのないものとして記憶に残っていた。穏やかに、心静かに、呼吸とともに幸福が胸に広がっていく。その何気なにげない瞬間こそ、ずっと求めていた理想の未来だったと気がついた。だからこの感覚を決して忘れてはいけない、手放してはいけないと心にちかった。


 今、その大切な思い出が土足で踏みにじられている。夜空は黒い雲に覆われて、月や星は全く見えない。降り続ける雨はアスファルトの地面を濡らし、周辺の土をねて世界を泥だらけにしていた。沿道の街灯は心許こころもとなく、開いている店舗の明かりも少ない。民家も雨戸を閉めてひっそりと静まり返っている。そして背後からは、片方だけのヘッドライトを光らせた傷だらけの車に追いかけられていた。


「五條インターチェンジで降りて、十津川方面へ進んで、国道168号線を走る……」


 千晶は戸村から聞いた道筋を口の中で繰り返す。道路標識の文字には十津川と書かれていた気がする。しかし周囲の見通しが悪すぎるせいかそれ以降はなんの標識も見当たらず、正しい道を走っているかどうかも分からない。大我の車に煽られ続けて、落ち着いて確認する余裕も失われていた。


「合っているの? この道で?」


「あぁ、十津川へ行くのなら、この道でいいはずだよ」


 助手席の龍崎が首を伸ばして辺りに目をこらしつつ答える。


「高速道路を下りて分かったよ。ここは国道310号線だね。もう少し行くと24号線と交わって168号線になるはずだよ」

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