第50話

「それはまぁ……でもしょうがないよ、家族だから」


「僕も家族に加えてくれたら、その負担も半分になるよ。仕事も増やせるし、一緒に遊ぶ時間も増えるよ」


「そうだね……」


 戸村の説得に千晶はうなずく。彼の言う通り、時間の足りなさに苦労することも少なくはない。そのせいで仕事に支障をきたす不安も日々感じ続けていた。遅刻や欠勤ならまだ挽回ばんかいできるが、送迎中に事故を起こすと大変なことになる。タクシードライバーには心の余裕が必要だと知った。


 しかし、それでも千晶はまだ首を縦に振るのをためらう。結婚は仕事ではない。一時の感情で一生を棒に振りかねないことはすでに経験している。それだけに戸村を巻き込みたくなかった。この純朴じゅんぼくで人の良い彼が、連れ子のいる年上の女などと結ばれてもいいだろうか。情熱にほだされて付き合い始めたが、彼の幸せを望むならば隣に自分がいるべきではないという思いが強まっていた。


「千晶さん」


 戸村は片時も目を離さずにこちらを見つめている。


「僕は、田辺に帰ることになると思う」


「え、嘘、いつ?」


「……五年後か、六年後か、十年以内には」


「ああ、なんだ……」


 千晶はほっと胸をで下ろしたが、すぐに彼が驚かすつもりで言ったわけではないと気がついた。


「一人っ子だから実家を放っておくわけにはいかないんだ。市内の中心からちょっと離れた山のほうでね。田んぼと畑と、梅が少しあるんだよ」


 和歌山県の田辺市は梅の生産地で知られている。時期になると山一面に花が咲き誇り、どこまでも梅の香りに満たされる、と前に彼が話していた。


祖父じいちゃんが死んでからは祖母ばあちゃんとサラリーマンの親父が管理しているけど、二人が元気なうちに引きいでおくほうがいいと思っている。だから帰ることは決めているんだけど、千晶さんと泰輝くんも一緒に来て欲しいんだ」


「……私なんかが行ったら煙たがられない?」


「まさか。特に祖母ちゃんなんて大喜びだ」


「でもそういうお家って厳しいんじゃないの?」


「もうそんな時代じゃないよ。土地はあっても人はいない。どこも跡継あとつぎがいなくて困っている。孫なんて帰ってくるだけで孝行者こうこうもの。お嫁さんも一緒なんて万々歳ばんばんざいだよ」


 戸村は軽く両手をげて笑顔を見せる。千晶は幼い頃に父を亡くして以来、大阪へ出るまでは古い市営団地で母と二人きりで生活してきた。父の親類とも数えるほどしか会ったことがなく、母の実家も近所という他にはどこにあるのか聞いたこともない。田舎の実家や親戚付き合いというものには全く縁がなかった。だから戸村の返答が事実なのか甘い見通しなのかも判断できない。ただ彼の親や祖母ならきっといい人だろうという信頼感はあった。


「僕が言うのもなんだけど、いいところだよ。街もそこそこ発展しているから不便はないし、山のほうは本当に自然が豊かで清々すがすがしいよ。海も近いし、気候もここより暖かくて過ごしやすい。まあ、大阪に住んでいた千晶さんには物足りないかもしれないけど」


「どうかな。私も都会にはあまり馴染なじめなかったと思うけど」


「泰輝くんは気に入るんじゃないかな。野外活動も好きみたいだし、あの子は周りに合わせるよりも自分をつらぬくのが得意だと思う」


「わりと頑固なところがあるからね」


「でも真面目で思いやりがあって、笑顔が凄く可愛い。そういうところは千晶さんにそっくりだ」


「……実家へ帰って、農業をするの?」


「いや、しないよ。手伝いくらいはするだろうけど、仕事にはできない。親父もお袋もそんなことは望んでいない。大変なのに儲からないのも知っているからね」


「じゃあ何をするの?」


「同じだよ。介護タクシーのドライバー。近くで募集している会社を探すか、なければ自分で立ち上げようと思っている」


「会社を作るの?」


 千晶が驚いて聞き返す。戸村は、もしかしたら、と付け加えた。


「需要はあるはずなんだ。田舎は車がないとどこへも行けないのに、年齢や病気で運転が難しくなった爺ちゃん婆ちゃんが増えている。バスはあるけど本数は少ないし、普通のタクシーを通院や買い物に使うのは贅沢ぜいたくだと思っている。それ以外にも、ちょっと離れた誰かに会いに行くとか、寄り合いに顔を出すのも苦労している人は多い。そんな人たちが気軽に使えるタクシーをやりたいんだ」


「そっか。そういうのは地元の出身者がやると受け入れられそうだね」


「僕なんてどこへ行っても『戸村の息子』で通じるからね。みんな親戚みたいなものだよ」


 戸村は照れた風に顔をほころばせる。会社を作るというのは意外だったが、彼の中では以前から計画していたことのようだ。農業は儲からないと言ったが、利益だけのためにタクシーを走らせるわけではないだろう。自分がやらなければならないという、優しさからの強い使命感があった。


「どうだろう、千晶さん。それなら君も働けるし、地域にもすぐ馴染めると思う。あっちへ行っても退屈しないよ。ずっと家に引き籠もるのは嫌だろ?」


「それはそうだけど……」


「会社を立ち上げるなら、僕は千晶さんと一緒にやりたい。独身の男が一人で介護タクシーをやるのも無理があるし、僕は馬鹿で要領ようりょうも悪いから手助けしてくれる人が必要なんだ。君と結婚したら全てうまくいくような気がする。結局君の負担が増えたら申し訳ないけど……いや、それでも僕は君と生きていきたいんだよ」


「幸里くんは……」


 千晶は少し赤みを帯びた戸村の顔をじっと見つめる。決意を告げた彼の目は力強く輝いていたが、その表情にはやや不安の影が射している。それは千晶の表情をそのまま投影させたかのようだった。


「……誘ってくれたのは嬉しいけど、幸里くんには、私よりもっといい人がいると思うよ」


「どうして? 僕は、千晶さんがいいんだよ。田辺に住むのは嫌?」


「そんなことない。素敵なところだろうし、介護タクシーの会社をするのも幸里くんらしくて凄くいいと思った。きっとうまくいくよ」


「じゃあ何が問題? 僕が嫌いってこと?」


「そんなわけないでしょ」

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