第50話
「それはまぁ……でもしょうがないよ、家族だから」
「僕も家族に加えてくれたら、その負担も半分になるよ。仕事も増やせるし、一緒に遊ぶ時間も増えるよ」
「そうだね……」
戸村の説得に千晶はうなずく。彼の言う通り、時間の足りなさに苦労することも少なくはない。そのせいで仕事に支障をきたす不安も日々感じ続けていた。遅刻や欠勤ならまだ
しかし、それでも千晶はまだ首を縦に振るのをためらう。結婚は仕事ではない。一時の感情で一生を棒に振りかねないことはすでに経験している。それだけに戸村を巻き込みたくなかった。この
「千晶さん」
戸村は片時も目を離さずにこちらを見つめている。
「僕は、田辺に帰ることになると思う」
「え、嘘、いつ?」
「……五年後か、六年後か、十年以内には」
「ああ、なんだ……」
千晶はほっと胸を
「一人っ子だから実家を放っておくわけにはいかないんだ。市内の中心からちょっと離れた山のほうでね。田んぼと畑と、梅が少しあるんだよ」
和歌山県の田辺市は梅の生産地で知られている。時期になると山一面に花が咲き誇り、どこまでも梅の香りに満たされる、と前に彼が話していた。
「
「……私なんかが行ったら煙たがられない?」
「まさか。特に祖母ちゃんなんて大喜びだ」
「でもそういうお家って厳しいんじゃないの?」
「もうそんな時代じゃないよ。土地はあっても人はいない。どこも
戸村は軽く両手を
「僕が言うのもなんだけど、いいところだよ。街もそこそこ発展しているから不便はないし、山のほうは本当に自然が豊かで
「どうかな。私も都会にはあまり
「泰輝くんは気に入るんじゃないかな。野外活動も好きみたいだし、あの子は周りに合わせるよりも自分を
「わりと頑固なところがあるからね」
「でも真面目で思いやりがあって、笑顔が凄く可愛い。そういうところは千晶さんにそっくりだ」
「……実家へ帰って、農業をするの?」
「いや、しないよ。手伝いくらいはするだろうけど、仕事にはできない。親父もお袋もそんなことは望んでいない。大変なのに儲からないのも知っているからね」
「じゃあ何をするの?」
「同じだよ。介護タクシーのドライバー。近くで募集している会社を探すか、なければ自分で立ち上げようと思っている」
「会社を作るの?」
千晶が驚いて聞き返す。戸村は、もしかしたら、と付け加えた。
「需要はあるはずなんだ。田舎は車がないとどこへも行けないのに、年齢や病気で運転が難しくなった爺ちゃん婆ちゃんが増えている。バスはあるけど本数は少ないし、普通のタクシーを通院や買い物に使うのは
「そっか。そういうのは地元の出身者がやると受け入れられそうだね」
「僕なんてどこへ行っても『戸村の息子』で通じるからね。みんな親戚みたいなものだよ」
戸村は照れた風に顔をほころばせる。会社を作るというのは意外だったが、彼の中では以前から計画していたことのようだ。農業は儲からないと言ったが、利益だけのためにタクシーを走らせるわけではないだろう。自分がやらなければならないという、優しさからの強い使命感があった。
「どうだろう、千晶さん。それなら君も働けるし、地域にもすぐ馴染めると思う。あっちへ行っても退屈しないよ。ずっと家に引き籠もるのは嫌だろ?」
「それはそうだけど……」
「会社を立ち上げるなら、僕は千晶さんと一緒にやりたい。独身の男が一人で介護タクシーをやるのも無理があるし、僕は馬鹿で
「幸里くんは……」
千晶は少し赤みを帯びた戸村の顔をじっと見つめる。決意を告げた彼の目は力強く輝いていたが、その表情にはやや不安の影が射している。それは千晶の表情をそのまま投影させたかのようだった。
「……誘ってくれたのは嬉しいけど、幸里くんには、私よりもっといい人がいると思うよ」
「どうして? 僕は、千晶さんがいいんだよ。田辺に住むのは嫌?」
「そんなことない。素敵なところだろうし、介護タクシーの会社をするのも幸里くんらしくて凄くいいと思った。きっとうまくいくよ」
「じゃあ何が問題? 僕が嫌いってこと?」
「そんなわけないでしょ」
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