第49話

 『きたまちケアタクシー』に勤め始めて二年目の夏。千晶は戸村の運転で奈良市にある奈良奥山ドライブウェイを走行していた。場所は東大寺や春日大社のある奈良公園の東に広がる春日山原始林かすがやまげんしりんの外周を巡る自動車道で、ほぼ全線に渡って森林が続く細い山道となっている。千晶は休日で、戸村も午後の早いうちに今日の仕事が終わったので会うことになった。息子の泰輝は小学校に通っていた。


「こんな道があるなんて知らなかった」


 けっぱなしの窓から入る緑の風と匂いを感じながら千晶は周囲を興味深く眺めている。原始林と言われても植物に詳しくないので単に森を進む山道にしか見えない。それでも街から十分ほどでいきなり神秘的な大森林が始まることに新鮮な驚きがあった。


「今までここは走ったことなかったの?」


 太い手でハンドルを握る戸村が嬉しそうに尋ねる。千晶よりも二歳下だが、この職場では先輩なので親しくなるとお互いに敬語で話すことはなくなった。車は青色のSUVエスユーブイ車で彼に似て無骨で頑丈そうな造りになっている。運転は好きだが改造には関心がないらしく、足回りも内装もいじることなくメーカーの純正品を信頼していた。


「千晶さんは奈良の出身なのに、あまり詳しくないよね」


「地元の人は観光地へ行かないものだよ」


「そうかな? 僕はアドベンチャーワールドも白浜しらはまの海水浴場も好きだけど」


「和歌山の動物園や海なら楽しいでしょ。奈良なんて街はお寺や神社ばかりだし、街の外は山と森ばかりだし、子供にはつまらないよ」


「大人になってからは?」


「まあ、ほどほどに? 幸里くんは好きそうだね」


「好きだよ。京都ほど派手で賑やかじゃないし、こう、どーんと腰をえて落ち着いている感じがしない?」


「それ、大仏さまだけ見て言ってるでしょ」


「仕事で名所案内をするようになってからはもっと好きになった。でも爺ちゃん婆ちゃんのほうがずっと詳しいから敵わない。いやぁ勉強になりますって言ったら、あんたが教わってどうするの、授業料もらうよって叱られるんだ。参ったよ」


 戸村はそう話してからりと笑う。会社は身体の不自由な客の通院や買い物の送迎をメインの業務にしているが、依頼があれば市内の名所を巡るツアーも行っている。彼はそのガイド役として特に客から人気を集めており、指名を受けて派遣されることも少なくはなかった。


「幸里くんがガイドをしてくれるなら楽しいだろうね」


「そうかなぁ。僕は自分が遊んでいるだけじゃないかと思っているんだけど」


「それがいいんだよ。君が楽しんでいるからみんなも楽しめるんだよ」


「千晶さんも?」


「私は……つまんないことには付き合わないから」


「なんか回りくどいなぁ」


「楽しいよ」


 千晶は素直に認めて笑顔を見せる。戸村と付き合うようになってから、これまでの人生にはあまりなかった穏やかで優しい日々を感じるようになっていた。母の病気や息子の将来など不安はあったが、彼と過ごしていると心が強くなり前向きになれる気がした。この年下の男は顔も地味なら仕事も車の運転も不器用で、女の扱いも決して上手いとは言えない。しかしそれを補って余りあるほどの大らかさと頼もしさが体の芯に備わっており、その屈託くったくのない笑顔は周囲の人々に安心感を与えて気持ちをなごませる力を持っていた。


「幸里くんとドライブに行くようになって、私、自分が求めているものが分かってきた気がする」


「良かった。千晶さんもやっと奈良の魅力に気づいたんだね」


「そうじゃなくて……」


「次は泰輝くんも連れてまたキャンプへ行こう。約束しているんだ。夏になったらノコの捕まえかたを教えてやるって」


「仲良いよね、君たち」


「友達だからな。いい子だよ。引っ込み思案じあんだけど好きなことは黙々とやり続ける。根性あるよ」


 戸村は四角いあごを引いてうなずく。泰輝も戸村のことは気に入っているらしく、会うと積極的に近づいていく。キャンプや昆虫採集などアウトドアの遊びは千晶もほとんど馴染なじみがないので連れて行ってもらえるのは嬉しい。前は川べりで転んでも泣くことなく戸村のあとを追いかけたのに驚かされた。坂道を駆け上がる小さな背中に成長を実感した。


 原始林の道を抜けるとやや開けた高台の展望台に辿り着く。平日ともあって他に車はなく、都会と比べると平坦に広がった奈良盆地の街並みを見下ろすことができた。周囲の木々は燃えるように枝葉を広げて、絶え間ないセミの声が胸にり気持ちを震わせる。山にいだかれるとはこういう感覚だろうかと千晶は感じていた。


「この間の話、決めてくれた?」


 この雰囲気を乱さないようにと気をつかったのか、戸村がこちらを向いて静かに尋ねる。千晶はちらりと見返してから、再び正面の景色に目を移した。なんの話? と聞き返そうとしたが、すぐに思い直して声には出さなかった。とぼけた振りをするのは昔の店で覚えた悪い癖だった。


「……ちょっと、まだ早いんじゃない? 結婚なんて」


「爺ちゃん婆ちゃんがうるさいんだよ。和歌山じゃなくて奈良のね。結婚はまだなのかとか、誰かいい人はいないのかって。気にしてくれているのはありがたいけど、たくさんいるから毎回言い訳するのも大変なんだ」


「他に話すことがないから言っているだけだよ。もう少し、今のままじゃ駄目かな?」


「間を空けたって変わらないよ。今のどっち付かずのほうがやりにくいと思わない? 毎晩違う家に帰って長電話をするのも味気ないよ。僕、お陰で千晶さんの電話番号もすらすら言えるようになったよ」


「スマホに登録してないの?」


「登録しているけど、番号は覚えておきたい男心おとこごころだよ。千晶さんも一人で仕事に出られるようになったし、結婚すれば君が働いている間は僕が代わりに泰輝くんと遊べるよ」


「面倒見られるよ、でしょ。それは助かるけど」


「病気のお母さんにもちゃんと会いたい。一回お見舞いに行ったきりだからね。余計な気を遣わせて申し訳なかった。千晶さんだって仕事も育児もこなすのは大変だろ?」

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