第48話

 尻を叩かれた馬のように車が一気に加速する。後ろの車が離れていく。大我は簡単に追いつけると知っているのですぐには動かない。道路の左側に側道そくどうが現れて下り口が近づく。千晶はハンドルを右に切って中央分離帯のぎりぎりまで車を寄せる。高速道路を下りる意思はないという見せかけと、次の動作への準備だった。車の速度はますます上がり、下り口へも入ることなく通過した。


 同時に、ブレーキを目一杯踏んでハンドルを思いっきり左に切った。


 タイヤが雨天の道路をすべって悲鳴を上げる。車体がバラバラになりそうなほどきしみ、強い遠心力を受けて体が右側に貼り付いた。景色が側面の壁を逆流し、車体が180度回転する。真後ろの道路が視界に入ると再びアクセルを踏み込んだ。


 後ろから煽られ続けてきた黒い車が、正面から迫る。


 獲物に食らいつく肉食獣のような笑みをたたえた、愛葉大我と目が合った。


 千晶は奥歯を噛んで恐怖を追い払うと、今度はハンドルを限界まで右に切る。車体は逆回転して景色が進行方向に流れる。つまり全体を通して車はS字を描くように回転したことになる。回りきったところでハンドルを戻すと、正面にはちょうど通り過ぎた高速道路の下り口が見えた。そのまま走行を続けて坂道を下っていく。黒い車は進路変更が間に合わずに高速道路を先へと進んでいった。


「龍崎さん、お怪我けがはしていませんか?」


「だ、大丈夫だけど、大丈夫じゃないよぉ……」


 龍崎はまだアシストグリップを握り締めたまままばたきを繰り返している。


「こ、こういうのは先に言ってくれないと、一体何がどうなったのか……」


「説明している時間がありませんでした。うまくいくかどうかも……」


 千晶は返答の後半を小声で濁す。全身から汗が噴き出し、冷房を受けて寒気が走った。もしも車が回りきらなかったら、黒い車がもう少し近づいていたら、自分だけでなく龍崎まで命を失う事故になっていた。それでも、ここまでしなければ逃れられないと思った。


 ついに見た黒い車のドライバーは、間違いなく愛葉大我だった。ヘッドライトの光を受けて浮かび上がった顔は目を爛々らんらんと輝かせ、口角こうかくを持ち上げて歯をき出しにしていた。地獄のような過去からやってきた悪魔の笑顔だった。奴はあの頃よりもさらに凶悪で残忍な車の怪物と化していた。


「とにかく、これでなんとか時間は稼げました。恐らくは奴も次の下り口から引き返してくるでしょうが、それまでに山道へ向かえばすぐには……」


 突然、夜道の右側だけが二倍以上に明るくなる。強烈な光が背後から差し込み、恐怖が背中を通り抜けた。千晶は慌ててルームミラーを確認する。闇をまとった片目の車が高速道路を下ってきた。


 引きがせなかったの?


 考えられない状況が起きている。あのタイミングで奴の車が下り口に入れるはずがない。同じようにS字を描いて道を戻ろうとしても、あの車の大きさでは車体を転回しきれず側壁に激突する。唯一できる方法は、シフトレバーを【R】に入れて高速道路をバックで引き返すことだ。後続車を巻き込みながら。


「助けて、幸里……」


 千晶は震える声で思わず夫の名前を漏らした。


二十六


【8月8日 午後3時7分 奈良奥山ドライブウェイ】


 千晶が『きたまちケアタクシー』を知ったのは、三年前に偶然そこに勤務する戸村幸里と出会ったからだった。


 体調が悪いという母を無理矢理に病院へ連れて行った日。診察を待っている間に何気なにげなく外へ出ると、入口付近の駐車場に一台の介護タクシーがやってきた。


 運転席から下りてきたのは体力のありそうな筋肉質の青年で、短髪に太眉で四角い顔と、どことなくジャガイモを思い出される風貌ふうぼうをたたえていた。彼は後部座席から車椅子を出すと助手席に同乗していた老婆を抱えるようにタクシーから車椅子へと移動させて病院内へと押し運んでいった。


 こんちは、と彼は千晶の前を通りがかる際に笑顔で軽く挨拶あいさつをしてきた。千晶は、ああどうもと会釈えしゃくと一緒に小声で返した。彼が消えてから、ああどうもではなく、ご苦労さまですとでも言えば良かったと思った。


 その時も千晶はジャガイモ顔の彼になんの関心も抱いていなかった。ただ、あの小さな車にどうやって車椅子が収まっていたんだろうと気になった。それで介護タクシーのそばまで行って後ろから中を覗いてみたら、後部座席がすっかり取り払われた空間になっていることが分かった。そしてリアウィンドウの隅に貼り付けられていた【ドライバー募集中・女性大歓迎】のステッカーに目がまった。


 転職したいという思いはずっと頭の片隅にあった。いつまでも夜の店で働いているわけにはいかない。息子が小学校に入るまでには昼間に働ける職場へ移りたかった。母も病気をわずらっているなら放っておくわけにはいかない。通院が必要なら車で送り迎えをしたほうがいいだろう。何より離婚した愛葉大我が刑務所にいる間に大阪での仕事も家も捨ててしまいたい。彼が出所した時には完全に姿を消してしまいたかった。そんな思いが、奈良で介護タクシーのドライバーをするという将来といきなり結び付いた。


 それで、病院から出てきた彼を待って求人のことを尋ねた。思い立ったが吉日きちじつ、というよりは、母の診察が思いのほか長引いて手持ち無沙汰ぶさたでいたからだ。働きたい気持ちを伝えると彼はことのほか喜んでくれて、客の送迎中にもかかわらず会社に電話を掛けて取り次いでくれた。そしてほとんど日を空けずに会社に呼ばれ、面接で互いの条件が合うなりすぐに採用が決まった。


 空回からまわりしていた運命の歯車が、再びギアを噛んでゆっくりと回り始めるのを感じた。もしあの日、あの病院へ行かなければ、彼の介護タクシーに出会わなければ、会社がドライバーを募集していなければ、千晶はこの仕事にくことはなかった。そのきっかけは、最初に彼から元気良く挨拶されて、すぐに話を進めてくれたことだった。ただ、入社してしばらくってから、あの時はドライバーが足りず苦労していたのかと彼に尋ねたら、一目惚ひとめぼれだったと見当違いの答えが返ってきた。


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