第47話

「だけど、千晶さん。無事に辿り着けるかな?」


「どういうことですか?」


「後ろの車が何もしてこなければいいんだけどねぇ」


 龍崎に言われて千晶はルームミラーで背後を窺う。いつの間にか、愛葉大我の車が真後ろにまで迫っていた。わずかに見えた車体の左側はウィンドウが割れてドアが大きくへこんでいる。だがエンジンやタイヤなどの駆動部くどうぶに影響はないらしく、さらに獰猛どうもうな気配を発しながら煽り続けていた。


「ああ、やっぱりあの追突事故から帰ってきたんだねぇ。あんなに傷ついているのに全く気にしていない。きっと凄く怒っているよ」


 龍崎はまだラジオで聞いた事故と勘違いしているが、いずれにしても状況は同じだった。


「十津川までこのまま向かうことはできませんか?」


「あの辺りは全部ぐにゃぐにゃに曲がった山道なんだ。それに夜は真っ暗になって車もほとんど走らない。付いてこられると怖いよねぇ。戸村くんが来てくれてもどうなるか……」


「逃げ切れないかも……」


 千晶は龍崎の言葉を続ける。事故を負わされた大我は頭に血が上って、煽り運転よりも直接的な手段に出るかもしれない。高速道路で追突するのはお互いに危険がともなうが、一般道へ入ればいくらでもやりようがある。また山道に入るとさらに運転技術と車の性能が顕著けんちょになる。周りの目がないのを見計らって襲いかかってくる可能性は充分にあった。


 ここで振り切るしかない。


 走り続ける車は止められない。迷っている間にも戸村から指示された一般道への下り口が近づいて、なんの対応も取れなくなってしまう。やるなら今しかない。それも、やはり自分にはできないと思われている走りを駆使くしするしかなかった。


「あれ? 千晶さん。眼鏡を掛けていないね。どうしたの? 大丈夫? 前は見える?」


「平気です。あれは仕事用の伊達眼鏡なんです」


「へぇ、じゃあ贋物にせものだったのかい。僕はまた、目が悪いのかと思って心配していたよ。あれ? でも仕事中なのに外していいの?」


「もうこんなの仕事じゃありませんから」


「ああ、それもそうだ」


「龍崎さん、またちょっと、無茶な運転をしてもいいですか?」


「後ろの車から逃げる気になったんだね。いいとも、眠気も疲れも大分収まってきた。それにしても、千晶さんは眼鏡を掛けないほうが美人だよ」


「ありがとうございます」


 千晶はアクセルを踏み込むと、ハンドルの中心を叩いてクラクションを鳴らした。


 続けて車体を左右に揺らしつつ前方の車に近づくと、対向車線との間に並ぶ中央分離帯のぎりぎりにまで車を寄せる。さらに執拗しつようにパッシングを繰り返して煽り運転を試みた。前方の車はしばらくなんの動きも見せなかったが、やがて速度を上げて引き離そうとする。それでもぴったり付き続けていると、うんざりしたように左側に車を寄せた。千晶はその隙に加速して、一車線にもかかわらず前方の車を追い抜いた。


 まだまだ……。


千晶はなおも車を走らせて、さらに前の車に追いつく。てのひらが汗で湿り、耳の後ろが激しく脈打っていた。こんなの、私の運転じゃない。私が一番嫌いな、運転が下手な癖にいきがっているチンピラの走りだ。だからこそ後ろの怪物を混乱させられると考えた。


「ち、千晶さん。危ないよ。ぶつかるよ」


「ぶつかりません!」


 高速道路の車線の幅は基本的に3.5メートルに定められており、左端の路肩ろかたにも若干の余裕が設けられてる。千晶の車の車幅は1.69メートルなので、相手の車が同程度かそれ以下の車幅であれば併走へいそうが可能だ。毎日同じ車を運転しているので万が一にも車幅を見誤ることはない。しかし高速で走っているのでかすっただけでも大事故になる可能性が高かった。


 次の軽自動車も左に追いやって抜かし、さらに次の高級車もクラクションを返されながら脇をすり抜けた。しかしその先では車幅が2.5メートル近い10トントラックが壁になってあとに続くしかなかった。


 背後から大きな衝突音が響いた。


 ルームミラーに目をやると、そこには大我の黒い車が、左のヘッドライトを破損はそんさせて片目となった顔をさらして背後に付いている。千晶が追い抜いた高級車に大我もフロントの左側を擦りながら強引に押し通ってきた。サイドミラーを見ても大我の車の後ろには一台の車も走っていない。あの高級車が側壁そくへきに衝突して停車したからに違いなかった。


「大我……」


 千晶はのどの奥で声を漏らす。ちょうどその時、前を走るトラックが分岐から左車線に移って一般道へと下りていった。開けた前方にはもう他に車の姿はなく、暗黒の空へと一直線に道が伸びている。反対車線を走る車も途絶え、その瞬間、まるで世界に二台の車以外には存在しないように思えた。


 まだだ、まだ諦めない。


 一般道から侵入してきた車が大我の車の後ろに付き、反対車線を走る車がハイビームのヘッドライトを踊らせつつ通り過ぎてゆく。目当ての五條インターチェンジはもう次の下り口となっている。このまま大我と一緒に下りるのは避けたい。たとえ逃げ切れないとしても、すぐには手出しのできない時間と車間距離がほしかった。


「龍崎さん、体をドア側に寄せて、アシストグリップを両手で握れますか?」


「え、何を握れって?」


「窓の上に付いている持ち手です。腕は上がりますか? ご不便をかけて申し訳ございません」


「ああ、これか。大丈夫。これでもまだ体は動くほうなんだ。でもどうしたの?」


「車を回します。舌を噛むと危ないのでおしゃべりもちょっと我慢してください」


「車を、回す?」


「口を閉じて!」


 千晶は視線の遠くに高速道路の下り口を見つける。タイミングが重要だ。下り口までの距離と、この車の加速性能と、愛葉大我の反応速度を見極みきわめろ。周囲の音が消えて、景色がゆっくりと動いていく。すると道路の先に一本、存在しないスタートラインが光の筋となって浮かび上がった。


 車の底が抜けるほど強くアクセルを踏みつけた。

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