第46話

『……千晶。分かっている。会社から電話で聞いたよ。今はどこで、どうなっている?』


「分かんない……橿原かしはらの南だと思う。京奈和自動車道で煽り運転を受けている」


『煽り運転? なんだそれ? いや、龍崎さんは?』


「……うん、いるよ」


 千晶は龍崎に勘づかれないように、言葉をにごして早口で告げる。


「大丈夫。今は何も問題ないよ。分かるよね?」


『……ああ、話しにくい状況なんだな。ともかく千晶が無事で良かった。でもどうして橿原に? お墓参りじゃなかったか?』


「それどころじゃなかった。ずっと煽り運転に付きまとわれて、こんなところまで来てしまったの」


『ずっと?』


「驚かないで。大我が……刑務所から出てきた愛葉大我が、盗んだ車で追いかけてきている」


『なんだって?』


 戸村が電話の向こうで声を上げる。元夫の存在については戸村にも全て伝えている。直接会ったことはないが、どういう人間であるかは千晶の話を通じてよく理解していた。


『信じられない……本当にその人なのか?』


「間違いないよ。昔の店を放火されて、盗んだ車も私が知っているお客さんの物だった。他にも元客をき逃げで殺している。全部、きのうと今日に起きている。窓から出した腕も見た。あいつ、私を追いかけて楽しんでいる」


『逃げられないの?』


「何度もいたけど帰ってくる。追突とか、襲うこともせずに、ただ怖がらそうとしてくる。でも車をめたら何をされるか分からない。あいつとは……まともに話せるとは思えない」


 話す側から不安と恐怖にさいなまれる。遠く離れた夫の声が、かえって心細さを招いて涙が込み上げてきた。


「どうしよう、幸里……もう私、何も考えられない。動いているのに、身動きが取れない。車から飛び出してしまいそうになる」


『千晶……落ち着いて。いいかい。僕の声を聞いて』


 戸村はわざと口調を遅くして語りかけるように話す。


『ハンドルをしっかり握って、深呼吸をするんだ。前をよく見て、君は車を運転しているんだ。車間距離に気をつけて』


「うん……」


『千晶、君が僕の想像以上に危ない状況にいるのは分かった。すぐにでも代わってやりたいけど、今はどうしようもない。だけど君は、僕よりずっと賢くて、我慢強い人だと知っている。それに絶対諦めない人だ。だからこの状況も必ず切り抜けられるよ』


「だけど、どうしたら……」


『大丈夫だ。僕が迎えに行く』


「幸里が? でもあなた、和歌山にいるんでしょ?」


『君もこっちへ向かっているから会えるはずだ。詳しい場所が知りたい。今の位置は分かる?』


「どこだろう……あ、御所南ごせみなみ大淀おおよど出口って看板が出ている」


 千晶は流れてゆく緑色の道路標識を見て答えた。


『ということは……よし、じゃあそれより先にある五條ごじょうインターチェンジで降りて、十津川とつかわ方面へ進んで国道168号線を走るんだ』


「五條で降りて、十津川、168号線だね」


『そう。標識も出ているから分かるよ。南の山のほうへ向かうんだ』


「分かった。それでどうするの?」


『そこから先はまた連絡する。それと泰輝くんの放課後児童クラブへは連絡した?』


「あ、まだ……」


 放課後児童クラブは午後七時に閉所される。普段は六時に仕事を終えてから迎えに行って一緒に帰宅していた。


『じゃあ僕から連絡しておくよ。会社と紀豊園にも伝えておく。ああ、愛葉さんの名前はまだ出さないでおくよ』


「ありがとう、幸里」


『とにかく事故だけは気をつけて。それと龍崎さんも。警察は矢田部さんを殺したのは龍崎さんだって、かなり強く疑っているらしい。僕にはとても信じられないけど、一応は刺激しないように注意したほうがいい。凶器もまだ見つかっていないそうだ』


「分かった……」


『千晶は龍崎さんに気に入られてると思う。僕が送迎している時も、千晶さんはどうしているかとか、また僕と交代することはあるのかとか聞いていたからね。今日の送迎だって、千晶が行くなら龍崎さんもご機嫌だろうと安心していたんだ。それがこんなことになって……』


「幸里のせいじゃないから」


『どう? 運転続けられそう?』


「……大丈夫。幸里に会うまでは頑張るよ」


『よし、じゃあ僕もすぐに出る。全部終わったら三人でご飯に行こう。何が食べたいか考えておいて』


「え、私が?」


『千晶のほうが頑張っているんだから当然だよ。各所に連絡したらまた電話をかけ直すよ。じゃ、本日も、無事故無違反、無事帰る。で、よろしくな』


 戸村は会社に掲げられている安全標語を暗唱して電話を切る。千晶は彼の声の名残を耳に感じつつ、言われた通りに深呼吸を繰り返した。幸里が迎えに来てくれる。泰輝も待っている。そう思うだけで陽の光を失った道の先に新たな光明を感じた気がした。


「千晶さん、今、誰かと話していたの?」


 龍崎が眠たげに目をこすりながら尋ねてくる。


「それ、電話だよね? 聞き覚えのある地名を話していたように思うんだけど」


「そうです。電話の相手は戸村です。煽り運転を受けていることを話して、対策を考えてもらいました。この先の五條インターチェンジで高速を降りて、十津川方面へ向かえと」


「十津川? えらく南の山奥になるよ。どうして?」


「戸村が助けに来てくれます。彼は今、和歌山の田辺市に帰省きせいしているんです」


「そう、戸村くんが……田辺ということは、そう、熊野古道を北上して十津川で落ち合うつもりだね」


「お詳しいですね。道、分かりますか? 私は全然分からないのですが。あ、カーナビに地図は出ています」


「たぶん分かるよ。この高速道路は知らないけど、下りたら何とかなると思う。あの辺は車で行ける道は少ないからねぇ」


「頼りになります。龍崎さんがご一緒で助かりました」


 千晶はわざと誇張して龍崎を褒める。彼に殺人犯と疑っていることを気づかれてはいけない。ずっと隣にいながら何もされなかったのは、何も知らない人間にまで危害を加える必要はないと考えているのかもしれない。全て知られて、その上で紀豊園へ引き返そうとしていると思われたら、無理矢理にでも阻止される恐れがあった。

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