第45話

「龍崎さん、落ち着いてください。疑ってしまったことは謝ります。だから自分を悪くおっしゃるのはやめてください」


「謝って済むものか! 俺は謝っても許してもらえなかった! 誰からも許してはもらえなかった! だから殺した! 殺して、謝って、また殺した!」


「あなたはそんな人じゃありません! あなたは長年鉄道会社に勤務して、定年退職後はシルバー関係の仕事にいたり、ボランティア活動にいそしんでおられたと聞いています。認知症になって紀豊園へ入ってからも、真面目で優しく、穏やかに暮らしておられました。思い出してください。あなたは立派な人です」


「そんなこと知るか! ボランティアだと? あんなもの、くだらない自己満足だ! 人を助けた気になって、社会に貢献した気になって、褒められて喜んでいる馬鹿共だ! 俺は誰からも褒められなかった! 誰も俺の気持ちを理解してくれなかった! だから殺した! 俺はそうするしか生きられなかったんだ!」


「龍崎さん!」


「うるさい! 俺をそんな名前で呼ぶな!」


「え?」


 千晶の思考が急ブレーキをかけたように静止する。一瞬の沈黙が車内に流れた。聞こえるのは龍崎の激しい息遣いきづかいと、雨の高速道路を進む車の走行音。ややあってから、千晶は静かな声で老人に問いかけた。


「じゃあ……あなたは誰ですか?」


 その時、静寂せいじゃくを切り裂くようにクラクションの音が背後から襲いかかってきた。


 いつの間にか、あの黒い車が三台後ろにまで迫っていた。


二十五


【8月20日 午後6時36分 京奈和自動車道】


 まるでめない悪夢のように、絶望感が背後から押し寄せてくる。体を削り取られたかのように気力が足の裏から抜けて落ちていく。見間違みまちがいであってほしいと願ったが、ゆるやかなカーブの途中に見える禍々まがまがしい車の姿は明らかだった。同じ車体だが別の車ではないかと疑いたかったが、何より自分自身がその期待を信じてはいなかった。


 愛葉大我が追いかけてきた。


 あの衝突だけで止めることはできなかった。助手席側のドアやフレームくらいはゆがんだだろうが、エンジンを停止させるまでには至らなかった。不運にも衝突した二台の車を残して、警察が駆けつける前に交差点から立ち去ったのだろう。大阪でいくつも事件を起こした奴にもう失うものはない。千晶の車と精神を煽る黒い車ですら花島常盛から奪ったものだった。


「ああ!」


 突然、助手席の龍崎が大声を上げる。見ると彼は小さな目を見開いて、ぜいぜいと呼吸を繰り返していた。


「こ、ここは、ええと……車? ああ、そうか……千晶さんだ」


「龍崎さん……お、お目覚めですか?」


「う、うん。起きた。起きたよぉ。いけない、また眠っていたんだね、僕は」


 龍崎は両手で顔を覆って深く溜息をつく。明らかに寝起きの仕草しぐさを見せる彼は、普段と変わらず少し甲高かんだかく、柔らかな響きを持った声で返答した。


「どうしたんだろうな、ひどく疲れている。まるで走り回ったみたいに息が切れて、動悸どうきも激しい。はは、もう走り回ることもできないのに。座ったままで眠ったせいかな」


「ご気分が優れませんか?」


「いや、平気、平気だよ。心配いらない。年寄りはねぇ、寝るのも一苦労なんだよ……」


 龍崎は力なく苦笑いする。どうやらまるで何も覚えていないらしい。千晶も気づかれないように平静を保ち、余計なことを言わないように口をつぐむ。しかし先ほどまで見せていた彼の言動が頭から離れなかった。


 あれは一体、なんだったの? 認知症によって豹変ひょうへんした龍崎が語った言葉は、どこまでが真実で、どこからが妄想だったの? 彼が矢田部を殺害してベッドの下に隠した可能性は高い。矢田部らしき介護士を憎んでいる様子と、腹に付けられた無数の小さな火傷やけどあとがそれを証明していた。矢田部からの虐待ぎゃくたいに苦しめられてきた龍崎が、思いあまって彼女を殺害してしまった。信じたくはないが、そう思えてならなかった。


 でも、それ以外の発言は全て妄想だったの? たくさんの人間を殺して警察に捕まったかのような話は記憶の再生ミスに過ぎないの? ひねくれ者のように世の中を憎み、自らもたずさわってきたはずのボランティア活動を嘲笑あざわらったのも、被害妄想に若干の本音が混じった程度の話だったの?


 いつかどこかで、そんな話を聞かなかった?


「思い出した……千晶さん、あの黒い車はどうなったの? あなたの昔の夫が運転している、あの凶悪な車は」


「……まだ、追いかけられています。三台後ろを走っています」


 千晶は強く奥歯を噛み締める。衝撃的な出来事が続いたせいで頭が混乱しているが、目下の緊急事態は愛葉大我の存在だ。ルームミラーで様子をうかがうと、奴は一車線にもかかわらず前の車を煽り運転で左脇へとけさせて、右側から強引に割り込んでいる。追い抜かれた車は責めるようにクラクションを二回鳴らしたが、それ以降は大人しく奴の車の後ろを離れ気味に走行していた。危なっかしい奴に関わらないのはドライバーの鉄則だった。


「そうか、まだ付いてきているんだぁ。なんてしつこい奴だ……」


 龍崎は目を閉じてシートに背中を預ける。その姿が、先ほどまで暴言を繰り返していた彼を思い出させる。いつ何時なんどき、再びあの人格が現れるかと思うと気が気でならない。あるいは高齢ゆえに体調を崩して思いがけない症状を引き起こさないかと不安になる。まるで時間の表示されない時限爆弾が助手席に置かれているようで、もう彼すらも信用できなくなっていた。


 イアホンマイクから電話の着信音が聞こえてくる。この上にまた新たな事件がやってくるの? しかしスマートフォンの画面には【着信・戸村幸里】の名前が表示されていた。千晶はすぐさま画面をタップして電話を繋げた。


『もしもし、僕だけど』


「幸里……どうしたの? いえ……」


 千晶は素知らぬ振りをしようとして思い直す。もはや誤魔化ごまかしても意味はない。夫が何度も電話をかけてくるのは、それなりの理由があるからだ。

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