第44話

 龍崎は早口でまくし立てる。声はにごり、舌はもつれ、聞き取れない言葉と、聞くにえない罵声ばせいを叫び続けている。目を開けていないところを見ると、夢と現実が混じり合った半覚醒はんかくせいの状態なのかもしれない。千晶の声に返答しているが、会話の相手が千晶とは思っていないようだ。


 幽霊……?


 龍崎が言っていた。認知症が発症すると、頭の中に恐ろしい幽霊が入り込んで体を運転する。頭のハンドルを奪って、悪口を言ったり悪いことをしたりする。彼が恐れていた事態が起きているのか? 今、彼の精神は幽霊に支配されているのか?


「龍崎さん、起きてください。しっかりしてください」


「うるさい! 俺が寝ようと起きようと俺の勝手だ! もううんざりだ! なぜどいつもこいつも俺に指図さしずする。俺はもう自由なんだ!」


 龍崎はダッシュボードの上に置いたカエルのマスコットに向かって叫ぶ。大口を開けて噛みつくような様子に、運転中の千晶も迂闊うかつに手を出してなだめるわけにはいかなかった。前触れもなしにやってきた、嵐のように騒がしく乱暴な幽霊。しかし認知症で幽霊が現れるなどありえない。記憶や感情をつかさどる脳に障害が起きて、まるで別人格のように振る舞ってしまうだけだ。


 一方で、それによって普段から心の奥底に押し込めていた不満や願望が表出ひょうしゅつすることもある。大人としてわきまえていた遠慮えんりょ気遣きづかいが失われて、幼い子供のようにわがままだが純粋な、本音だけの思考になってしまう者もいた。


 千晶は身勝手な暴君と化した龍崎の深層心理を読み取る。激しい怒りは感情をうまく抑えられないので仕方がない。問題は、その怒りをもたらす理由のほうだった。彼は入居する老人ホームに強い不満を抱いている。ただ普段はその思いを押し殺して、気さくで人畜無害じんちくむがいな老人を演じている。自身の体調と立場を考えての行動だろう。


 しかし認知症によってその思考が失われたとしたら、今のように心のたがが外れたとしたら、彼はどういう行動に走るのか。あの若槻からの電話がその想像を不安にさせた。


「……龍崎さんは、紀豊園が嫌いなんですか?」


「嫌いに決まっているだろ! あそこは犬のおりだ!」


「そんなことありませんよ。皆さん優しいかたばかりじゃないですか。ご不満があるなら介護士さんや職員さんに話されてみてはどうですか?」


「不満など言えるものか! 言えば次から目を付けられる。俺は目立ちたくない。目立てば警察を呼ばれる。だから俺は家も生活も捨ててあそこに入ったんだ!」


「紀豊園の中なら警察は呼ばれないはずです。外の生活では……周りの人たちも心配されたのでしょう。龍崎さんはご病気ですから、お一人で生活されるのは大変です。少しくらいは我慢するしかありませんよ」


「ああそうだ。俺は病気だ。病気で頭がパーになった! 俺なんて死んだほうがましだ! 生きているだけで世間に迷惑をかける、バカでノロマな汚いジジィだ!」


「そんなことは言っていません!」


「俺は毎日言われている! 朝、起きるのが遅かった時も、足が痛くて歩くのが遅かった時も、茶をこぼした時も、トイレを汚した時も、そう言われて蹴られて、叩かれて、首をめられる! しつけだ! 教育だ! お前は頭が悪いから体に覚え込ませるんだ! だから犬の檻だと言ったんだ!」


「え……」


 龍崎の告白に千晶は目を大きくさせる。ふいの強風を受けて、フロントガラスの雨をぬぐうワイパーがギィっと音を立てた。本当にそんな虐待ぎゃくたいが行われているのか、それとも悪夢のような妄想をかたっているだけなのか。龍崎は目を閉じたまま腰回りをさぐると、なぜかズボンからシャツを引き出して裸の腹を露出させた。


「くそっ、かゆい。また腹が痒くなってきた! タバコで焼かれてから腹と太腿ふとももが痒いんだ! でもいたらまた怒られる。行儀ぎょうぎが悪いから絶対するなとつねられる。だから布団の中でこっそりやるしかない。それでシーツが血塗ちまみれになって、また怒られるんだ!」


 千晶はちらりと目を向ける。たるんだ皮が何本ものしわを作っている老人らしいせた腹。日焼けしていない生白い肌には、赤黒い潰瘍かいようのような穴がいくつも散らばっていた。


「龍崎さん……掻かないで。その傷は、本当に?」


「どうして俺ばかりがこんな目にう! 俺が何をしたって言うんだ! 三年だぞ! 三年も耐えてきたんだ! それをあの女が、少し前に来ただけのあの女が、俺の人生をぶち壊した!」


「……だから、矢田部さんを殺したんですか?」


 千晶は会話の流れを切らないように質問する。ありえない。龍崎が人を殺すなど考えられない。しかし今の彼ならその可能性は否定できない。認知症で怒りを抑えられなくなった彼が、虐待を繰り返す介護士に復讐した。若槻や警察が抱いた疑いのほうが真実ではないかと思えた。


 すると龍崎は腹を掻く手を止めると、眠るように深い呼吸を繰り返してから、あらためて口を開いた。


「ああ、そうだ……みんな殺した。みんな殺してやった!」


「みんな?」


「みんな殺してやった! 俺は病気なんだ! 違う、病気はお前らだ! 俺はお前たちの、この世界の病気を治してきたんだ!」


「なんの話を……」


「世の中を正すことが俺の使命だ。悪を排除することを俺は生き甲斐がいにしてきた。それなのに警察は! あの公僕こうぼくどもは! 俺のほうを捕まえて、猿の檻に閉じ込めた! だから俺は自分を殺して、耐えて耐えて、耐え抜いた。そうしてやっと出てきたの言うのに、あの女が俺の使命をよみがえらせた! だから殺した!」


「ま、待ってください、龍崎さん」


 千晶は龍崎の叫びに戸惑う。聞きたくなかった言葉を聞くために質問を投げかけたが、彼の返答はその予想を超えたものだった。興奮した認知症の老人に会話を求めたことが無茶だったのか。話が論理破綻ろんりはたんしており、みんな殺しただの、警察に捕まっただの、妄想がいちじるしい。恐らく新しく頭の中に入り込んだ、あの黒い車と愛葉大我の一件が記憶の中に紛れ込んで、いびつな形で再生されたのだろう。

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