第43話

「え……」


 自然と口から声が漏れた。亡くなった? あの人が? 今日、紀豊園で若槻が彼女の居場所を捜しているそぶりを見せていた。別の職員に向かって、夜勤明けに姿を消して電話にも出ないような話を不満そうに語っていた。何か職員の間で行き違いがあったのか、それとも矢田部が仕事を放棄ほうきしたのかと思っていた。一度しか会ったことがない上に、最悪の印象しか抱いていなかったが、突然の死去が衝撃的なのは変わらなかった。


 しかし、なぜ若槻は今それを伝えてきたのか。出入りのタクシードライバーに電話で話すような内容ではない。伝えるとしても千晶の会社に連絡を入れて、間接的に知らせるのが筋というものだろう。ベテランの彼女ならそれくらいの常識もわきまえているはずだ。


『そ、それでね、私もうびっくりしちゃって。ちょうど所長もホームにいないでしょ。だから私が対応するしかなくて。他のメンバーには通常通りの仕事をお願いして、入居者の皆さんを動揺させないように気をつけて。でも、でも芹沢さんにはどう連絡すればいいのか分からなくて……』


「私に? い、いえ、私にそれほどお気遣きづかいいただかなくても」


『でも警察が、とにかく龍崎善三さんの所在しょざいを確認して、電話がつながるなら早くホームに戻ってくるよう運転手さんに伝えてくださいって』


「警察? え、それはどういうことですか?」


『私も分からないのよ。で、でも龍崎さんのお部屋の、ベッドの下から矢田部さんが見つかって、殺されていて……』


「殺されて?」


 若槻の切羽詰せっぱつまった声が耳を通って頭に響く。なんだ? 彼女は何を言っているの? 突然の話に理解が追いつかない。運転中であるのも忘れそうになり、思わず右足を動かしてアクセルの位置を確認した。


『え? は、はい、そうですね……だからとにかく、芹沢さんも早くこっちへ戻ってきてほしいの』


 若槻が近くの誰かに確認を取るようにして話を続けた。


『でも慌てないでね。龍崎さんが寝ておられるなら、そのまま連れて来てくれたほうがいいみたい。あまり刺激しないように』


「い、いえ、ちょっと待ってください、若槻さん。一体どうなっているんですか? まさか龍崎さんが矢田部さんを、その……どうして?」


『お願い、芹沢さん。私に聞かれても分からないの。警察の人もあまり話さないほうがいいって。芹沢さんは普通にして、何も知らない振りをして。じゃあ、もう切るわね。あまり電話を長引かせちゃ気づかれるかも。もし危ないと思ったら車を置いて逃げて』


 こちらの問いかけを一切無視して、話は伝えたとばかりに若槻のほうから電話を切られた。千晶はのどが詰まったように声も出せず、ただ正面を見えてハンドルを握っていた。


 龍崎が、矢田部を殺した?


 断言はしていなかったが、若槻の話からはそんな意味がみ取れた。だからわざわざ電話をかけてきて、帰所きしょの遅れも問わずに早く戻るよう伝えてきた。彼女の近くには警察関係者もひかえていたような雰囲気が感じられた。この車が理不尽りふじんな煽り運転を受けているさなかに、遠く離れた老人ホームでも大変な騒動が発生していた。


 理解できないことが起きている。龍崎のベッドの下から矢田部の殺害死体が見つかったので、彼が警察から疑いを持たれているらしい。なぜそんなことが起きているのか分からないが、若槻まで龍崎の犯行と思っておびえているのが腹立たしく、心配でもある。他の職員か入居者の中に本当の犯人が隠れひそんでいる可能性が高いからだ。何者かが矢田部殺害の罪を龍崎になすりつけようとしているのか。現場を知らない部外者の千晶には情報が少なすぎて推理することもできない。結局若槻の言う通り、一刻も早く龍崎を連れて紀豊園へと戻らなければならなかった。


「逃げるんだ……」


 龍崎の低い声が助手席から聞こえてきた。


「早く逃げないと、追いかけてくる。遠くへ、できだけ遠くへ行って、あとは……」


「龍崎さん、龍崎さん、もう逃げなくてもいいんですよ」


 千晶が優しく呼びかける。夢を見ているのか、無意識に言葉を発しているらしい。目を閉じたまま苦しそうな表情を浮かべていた。


「ああ、どこだ、ここは……」


「お目覚めですか?」


「眠っていたのか、俺は……。くそっ、また勝手に眠気がきた! なんてことだ、このボケ頭め!」


「龍崎さん?」


「一体どうなっている! ど、どこだここは!」


「落ち着いてください。ここはまだ車の中です。大丈夫です。大我……あの黒い車ももう追ってはきません」


「車の中だと? そうか、眠っている間に連れ込まれたか。ああ、畜生ちくしょう、これで何もかも台無しだ!」


 龍崎は体を左右に振って声を上げる。しかしシートベルトを着けているせいでうまく身動きが取れないようだ。どうしたのだろう。今までより声を大きくして、悪態あくたいいている。視線を向けると先ほどと変わらず目は閉じたままだった。


「俺をどこへ連れて行く気だ! どこへも行かないぞ! 俺は病人なんだ! いや、違う、病人はお前らだ!」


「暴れないでください。危険ですから。どこへも行きません。今から戻るんです、紀豊園へ」


「紀豊園? 紀豊園だと? あの年寄りの幼稚園か!」


 龍崎は目を閉じたまま大声で笑う。かすれたのどから発せられる、ひどく侮蔑的ぶべつてきな音だった。


「戻ってたまるか! あんなところに入ったのが間違いだった!」


「な、何を言っているんですか……」


 千晶は急に人が変わったかのような龍崎の態度に絶句ぜっくする。明らかに今までの彼とは違う。悲観的で心配性だが、真面目で心優しく、何度も私をはげましてくれた老人ではない。見た目は全く変わらないが、攻撃的で敵意をき出しにした性格が表れていた。


「おい、お前もあいつらの仲間なんだな。あの老人ホームは最悪だ! 刑務所よりひどい。部屋に閉じ込められて、何もかも監視されて、体を動かせ動かせだの、ちゃんと食え食えだのと強要される。こちらが下手したてに出ていれば、下手に出ていればな、どこまでも付け上がってくる。お歌を唄えだの、手拍子しろだの、まるでガ、ガキのおりだ。あそこにいたら治る頭も馬鹿になるぞ!」

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