第42話

二十四


【8月20日 午後6時29分 京奈和自動車道】


 寸断すんだんされていた京奈和自動車道へ再び乗り込んだ車は、片側一車線の狭い高速道路をさらに南へと走り続ける。このまま進むと道は次第しだいに西向きとなり、終点の和歌山市まで辿り着けるようだ。もちろん、そんな遠くまで行くつもりはない。どこか適当な下り口から一般道へ戻って引き返すことになるが、まだその踏ん切りは付けられないままでいた。


 千晶は体の震えを解消しようと左足を踏み鳴らす。赤信号の交差点に進入して、横切る車に大我の黒い車だけを衝突させて逃げ切った。一瞬でもタイミングが遅ければ、この車が事故を起こしていただろう。自ら選んだとはいえ相当無茶な運転だった。しかしそこまでやらなければ奴から逃げ切ることはできなかった。


 前方を衝突させた二台の車は無事だろうか。どちらも走り出した瞬間だったので、それほど速度は出ていなかったはずだ。またどちらの車体もフロントの長い仕様だったので、ドライバーたちにも怪我けがはなかったと思いたい。一方で、車体の左側を衝突された大我自身の体も無傷に違いなかった。


 あれほど大きな交差点で事故が起きたのだから、必ず警察も駆けつける。どのような現場検証が行われて、事故がどう処理されるかは分からないが、直前に赤信号を無視して走り去ったこの車の話も必ず出てくるはずだ。車体の側面に『きたまちケアタクシー』とプリントされた介護仕様の白い車だ。多くのドライバーたちの目にまっただろう。


 千晶は逃げも隠れもしない。警察署へ行って、事故のきっかけを作ったのは自分だと自供じきょうしなければならない。しかしそれは龍崎を紀豊園へ無事に帰し、大我が大阪での暴行、き逃げ、放火の罪で逮捕されてからだ。正直に話した結果、罪を問われて会社を辞めることになっても仕方がない。私は大我とは違う。自分の行動には責任を取る覚悟だった。


「恐れるな……大丈夫、全てうまくいく……」


 助手席から龍崎がうなるように声を上げる。シートの背に体を預けたまま、顔を斜め上に向けて目を閉じていた。覚醒かくせいした様子はなく、どうやら寝言を漏らしたようだ。夢の中でも励ましてくれているのだろうか。


「大丈夫、全てうまくいきました。龍崎さん」


 千晶は小さな声で優しくこたえる。龍崎が隣にいなければ大我の煽りに屈していただろう。たとえこれが最後の送迎になったとしても、彼がこれからも穏やかな日常を過ごせることを祈らずにはいられなかった。


 その時、右耳に付けたイアホンマイクから鳴り出した着信音が鼓膜こまくに響いた。


 ぞっと、寒気が再び背中を走る。突然の騒音にあの黒い車のクラクションを思い出したからだろう。そうでなくとも今日の電話には不幸が付きまとっている。根岡康樹の母が伝えた息子の死、花島常盛が教えてくれた煽り運転の正体。電話が鳴るたびに恐怖が倍増し、心が追い込まれていった。


 スマートフォンの画面には【着信・紀豊園】と表示されていた。


 ふぅっと安堵あんどの溜息が漏れる。着信は電話を掛けてきて当然の相手からだった。時刻はすでに6時を過ぎ、灰色の雲におおわれた空は暗さを増している。雨が降って送迎が遅れがちになったとしても、もう老人ホームへ戻っていなければ不自然な状況だった。


 頭の中で返答内容を整理してから【応答】の表示をタップする。紀豊園の職員も、まさか今この車が高速道路に乗って南へ遠ざかっているとは思ってもいないだろう。何が起きて、どうなったのかを簡潔かんけつに伝えなければならない。詳しい説明は後回しにして余計な心配をかけさせないほうがいい。いずれにしても、今すぐそちらへ戻ります、と言うしかなかった。


「はい、もしもし、芹沢です」


『あ、繋がった、芹沢さん? き、紀豊園の若槻です』


 イアホンから介護士の若槻の声が聞こえる。大柄で太め、丸顔で気さくな馴染なじみの女が思い浮かんだ。


『もしもし、芹沢さん。聞こえてる?』


「はい、聞こえています。あの、若槻さん、実は……」


『芹沢さん、今は、その、どこにいるの? そこに、龍崎さんはおられる?』


 若槻はなぜかかすような口調くちょうで尋ねてくる。千晶は彼女の態度にやや違和感を覚えた。何か様子がおかしい。怒っているわけではなく、むしろ過剰かじょうに心配しているように思える。老人ホームへの帰りが大幅に遅れているのだから無理もないが、なぜかその心配の奥に不安と恐怖が隠れているようにも感じられた。


「龍崎さんも、もちろんおられます。今は、ちょっと遅くなりましたが紀豊園へ戻る道中で……」


『龍崎さんは何をされているの? あ、この声も聞かれているの?』


「いえ、運転中にイアホンで聞いていますので、私しか聞こえていません。龍崎さんは助手席でお休みになっています」


『お休みって、寝ているってこと?』


「そうですね、はい、寝ておられます」


 千晶は繰り返して答える。状況を問いただされたり、軽く叱責しっせきを受ける覚悟で電話にのぞんだが、若槻の口振りにそんな雰囲気は感じられない。お陰で謝るタイミングもつかめず妙な沈黙が生まれた。


「あの、若槻さん。どうかされましたか?」


『どうかって……だって芹沢さんがここを出てからずいぶんと時間が経っているでしょ? それで私、あなたに何かあったんじゃないかと心配になって』


「ああ、申し訳ございません。私のほうから先に連絡をすべきでした。ただ、その、遅れた理由につきましては、また紀豊園へ戻ってからご説明を……」


『矢田部さんがね……』


「え、矢田部さん?」


 思わぬ名前を聞いて千晶は困惑する。矢田部と言えば以前に会ったことのある、冷たい目付きをした職員のことだ。千晶に対してなじるような言動を繰り返し、龍崎や若槻にも敵視する態度を見せていた。戸村の話によると、過去に別の老人ホームで入居者への虐待ぎゃくたい行為により辞めさせられていたという。ただ幸いにも今日は顔を合わせることはなかった。


「若槻さん、何事でしょうか? 矢田部さんが私について何かおっしゃっているんですか?」


『矢田部さんがね、亡くなったのよ』

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