第40話

「そんな、龍崎さん。しっかりしてください。私はもう、どうすれば……」


「じ、自暴自棄じぼうじきになっちゃいけない。自分を見失っちゃいけない」


 龍崎は小さな目を力一杯開いてこちらを見る。


「千晶さんには守るものがある。あなたがどうにかなったら、子供はどうするの?」


「泰輝は……」


「病気のお母さんもどうするの? 千晶さんがいなくなったら誰が二人を守るの? 戸村くんも悲しむよ。彼は千晶さんのことを、僕の妻と言っていたよ。何も聞いていないのに、嬉しそうにそう言ったんだ。千晶さんはとても素敵な人だけど、戸村くんもいい男だね。だから僕は、僕はね、二人ならいい夫婦になると思ったよ」


 龍崎はてのひらほおを何度も叩き、舌をもつれさせながら訴える。まるで臨終間際りんじゅうまぎわに必死で遺言を伝えようとしているかのようだった。


「だから千晶さん、あなたは諦めちゃいけない。あんな奴に負けちゃいけないよ。いいかい。失うものがない人はとても強い。でもね、本当に強いのは守るべきものがある人なんだ。何より守るべきは、あなた自身だ。それを忘れちゃいけないよ」


「わ、分かりました。分かりましたから、龍崎さんは楽にしてください」


「お願いだから、自分を捨てるような真似まねはしないで。お願いだよ……」


 龍崎はそう言って再びうなだれると、あっと言う間にいびきをかいて眠りだした。千晶は左手を伸ばして彼の手首から脈拍と刺激による反応を確かめて、重篤じゅうとく昏睡こんすい状態ではないと判断した。無理に起こす必要はない。シートを倒して寝かせてやりたいが、そこまでの余裕はない。せめて背中を背もたれに付けて安静な体勢を保たせた。


 あんな奴に負けちゃいけない。


 付けっぱなしだったラジオを消して、ルームミラーを確認する。鏡には黒い車と、その手前には髪を束ねて黒縁眼鏡を掛けた千晶自身の顔が半分ほど映っていた。伊達だて眼鏡を掛けるようになったのは、以前の同僚に似合うと勧められたから。それと、新しい職場で少しでも真面目な人間に見られたかったから。そして、過去の自分と決別したかったから。


 右手でフレームをまんで顔から取り外してドアポケットにしまう。再び鏡に目を移すと、そこには昔とはまるで違う、貫禄かんろくの備わった精悍せいかんな顔つきの女がこちらをにらみ付けていた。


 自分を見失うな。死ぬわけにはいかない。


 深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせる。息子も母も私がいなければ生きられない。ようやく出会った夫も手放すわけにはいかない。何よりも、まず隣で眠る龍崎を無事に帰さなければならない。もう私には守るべきものがたくさんある。追いかけてきたまわしい過去に捕まるわけにはいかなかった。


 交差する大通りを過ぎるたびに渋滞が緩和かんわされて、車の流れがスムーズになっていく。道路標識によるとこの先は五條ごじょうとあるが、もはや千晶の頭に地図は全く存在しなかった。同じく京奈和道の表記もあるので、寸断されていた高速道路へ再び入る分岐もあるのだろう。左手でカーナビを操作して進行方向の先を調べると、東西を横断する幹線道路と交差していることが分かった。


 黒い車は千晶の車の背後にぴったり貼り付いたまま、パッシングとクラクションで煽り運転を繰り返している。大我の目的は明確だ。千晶が恐怖のあまりに車を降りて、自分の前で土下座して逃げたことをびさせるつもりだ。奴にとって重要なのは、力尽ちからずくで車から引きずり下ろすのではなく、千晶が自ら謝りにくることだ。それで昔の主従関係が取り戻せる。およそ三年の結婚生活で奴の考えは手に取るように分かっていた。


 大我は、私を甘く見ている。


 千晶の表情が嫌悪にゆがむ。千晶が大我を知っているように、大我も千晶をよく知っている。俺には絶対に逆らえない、車の運転ではかなわないと知っているから、煽り続けていればいつかは負けを認めると思い込んでるはずだ。現に龍崎からの助言がなければ心が折れるところだった。私はまだ奴にしばられ続けていると気づいた。


 縛られているなら、無理矢理にでもち切るしかない。


 視界の遠くに太い幹線道路が見える。大和高田やまとたかだバイパスの高架と片道二車線の国道が上下となってこの道と十字に交差していた。信号はこちらが青色なので車は停まらず走行している。千晶はアクセルから足を離して速度をゆるめると、少しずつ他の車からは遅れがちに走り続けた。


 大我の黒い車も背後に貼り付いている。奴にこの車を追い抜く気はない。やがて信号は黄色になると、前の車が速度を速めて交差点を通過する。千晶がタイミングを計った通り、赤信号となった時点で交差点の先頭車両になった。


 千晶は息を止めると、アクセルを力一杯に踏み込んだ。


 車は急発進して赤信号で停まらずに交差点へ進入する。大我の車もそのままあとに付いてきた。


 左右の四車線からは青信号になって走り出した車が迫る。激しいクラクションの音と地面を引っくような急ブレーキの音が連続する。左からくるダークグレーの高級車をかわし、一番先の車線を走る赤いスポーツカーを寸前ですり抜けた。


 直後に、大きな衝突音が背後から聞こえてきた。


 千晶はアクセルを緩めずにルームミラーを確認する。一瞬しか見えなかったが、二台の車から側面衝突を受けて動きを止めた黒い車が目に入った。千晶の車はそのまま京奈和自動車道へと進入して高速道路の高架を上がる。事故をけた見知らぬ車が連なってあとに続いた。


 昔の私なら、こんな運転はしなかった。だから、大我は付いてこられなかった。


 過去を置き去りにできたと確信してから、千晶は止めていた息をようやく一気に吐き出した。

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