第39話

「分かりません……いえ、きっと恨まれているんです。勝手に離婚して、子供を連れて逃げた私を。だから煽って脅しているんです」


 千晶は独白どくはくするようにつぶやく。忘れようとしても忘れられない記憶。最初の結婚から三年間、千晶は大我の所有物として扱われていた。殴られるようになってからは口出しすることも許されず、乳児を抱えたままでは逃げ出すこともできなかった。元の幸福な生活を取り戻したくて、一度目の逮捕からすさんでいった夫を更生させたくて暴力に耐えてきた。しかし皮肉にも二度目の逮捕によって解放された。


「覚醒剤を使って、他人をひどい目にわせて、逮捕されました。刑務所に入ったんです。だから私も、彼と別れるしかありませんでした」


 二度目も家に突然警察が来て夫の逮捕が知らされた。今度は覚醒剤の所持しょじだけでなく、使用と譲渡じょうとも確認された。さらに夜の街でからんできた見知らぬ男に暴行を加えて死に至らしめた。覚醒剤取締法違反、ならびに傷害致死罪しょうがいちしざい。何もかもが千晶の知らないところで起きていたが驚きはなかった。いつかはそんなことになると、ずっと前から知っていた。


「覚醒剤で刑務所。ああ、それは酷いねぇ」


「でも、おかしいんです。出所日、刑期を終えて刑務所から出るのはまだ先のはずなんです」


 千晶がそれほど強烈な記憶を持つ愛葉大我と、後ろを走っている黒い車のドライバーを結びつけなかった理由もそこにあった。懲役七年の判決を受けて収監しゅうかんされてからまだ六年ほどしか経っていない。何度も確認したので間違いなかった。彼が今現在、車で煽ってくるなど不可能だと思い込んでいた。


「もしかして、あいつは刑務所から脱走したんでしょうか。そんなことをしてまで私を……」


「脱走なんてできないよ。刑期が短縮されたから早くに出所できたんだよ」


「短縮?」


 千晶がちらりと左を振り向く。龍崎は目を閉じたまま、船をぐようにゆっくりとうなずいた。


品行方正ひんこうほうせい模範囚もはんしゅうはね、刑期が短縮されるんだ。刑務官の言うことを聞いてね、真面目に作業に取り組んで、喧嘩けんかもせずに掃除や片付けもきちんとしていれば、認められることもあるんだよ。覚醒剤で捕まる奴は昔から多い。大したことじゃない。薬が抜ければ大人しいもんだよ」


「あいつが模範囚なんて……」


「僕は知っている。刑務所は服役囚を公平に扱う。でも外の世界は前科者ぜんかものを不公平に扱う。真面目でいても掃除をしても、悪人は悪人なんだ。誰も認めてくれない。仲間もみんな去っていく。何もかも失ってしまう。だから皆、また罪を重ねるんだ。そうして人は、怪物になるんだろうねぇ」


 龍崎の言葉に千晶は思わず息をむ。彼の断言口調は往々にして鋭く尖り、胸に深く突き刺さる。そういえば、かつてはボランティア活動にも熱心に取り組んでいたと聞いている。具体的な内容は知らないが、もしかするとその一環いっかんとして刑務所や服役囚とも接点があったのかもしれない。見知ってきたかのような持論じろんからもそれがうかがえた。


 雨にけむる幹線道路は周囲の車がますます増えて、流れはさらに減速していく。ルームミラーの全面に映った後続車のフロントが、巨大な大我の顔に見えた。覚醒剤で瞳孔どうこうが拡大した目をギラギラと輝かせて、歯をき出しにして笑っている。彼の笑顔は千晶にとっては威嚇いかくと同じ表情だった。


「どうしよう、逃げないと……」


 開き続ける目に痛みを感じ、ハンドルにかじり付きたいほどの焦りと混乱にかされる。花島常盛を暴行して車を奪い、根岡康樹をき殺し、『プロテア』に火炎瓶を投げ込んだ、愛葉大我。話し合いの通じる奴ではない。顔を合わせた瞬間に喉が詰まって声が出なくなり、体の震えが止まらなくなって、殴られ犯され殺される。想像ではない。それはすでに確定している未来だった。


「千晶さん」


「ちょっと待ってください! 今は!」


 声を上げて龍崎を制する。なんとかしなければならない。考えなければならない。車をめることは絶対にできない。しかしこのままでは振り切ることもできない。大我は私に車の運転を教えた先生だ。私の知らない車の構造に精通して、私にできないドライビングを披露されてきた。高速道路でゆっくり走る車をからかったり、これ見よがしに追い抜いてきた車にったりしていた。車の運転では絶対に敵わない。おまけに奴の車のほうが圧倒的に性能が高い。介護仕様のコンパクトカーに何ができるのか。ネズミがライオンから逃げているようなものだった。


「ネズミが……」


「ネズミが?」


「車を捨てれば、なんとか……」


 届かない雨の代わりに涙が視界をぼやかせる。ネズミがライオンに勝てるはずがない。でも必ず食い殺されるわけではない。草むらの中に飛び込んだり、地面の穴や木のうろに隠れると手を出せない。どこか近くの駐車場か道の端に車を駐めて、運転席から脱出して、車の入れないところまで走り抜けば奴から逃れられる。龍崎を助手席に残したままになるが、奴も無関係な老人は見逃してくれる。もうそうするしかない。


「千晶さん」


「龍崎さん、あの、私は……」


「すまない、千晶さん。幽霊がくる」


「え?」


「僕の頭に幽霊がくる。頭の運転を奪われる。ああ、困った。どうしようもなく眠いんだよぉ」


「り、龍崎さん、大丈夫ですか?」


 千晶は我に返って左を窺う。龍崎はシートで小さくうなだれたまま、顔の前でさかんに右手を振り続けていた。認知症による傾眠けいみん症状が引き起こされそうになっている。時と状況を選ばずに訪れる、あらがえない眠気。あまりにも衝撃的な出来事を立て続けに体験したせいで、精神が混乱し疲れ切ってしまったのだろう。


「だ、大丈夫、僕は平気だよ。もう何度も経験しているからね。しばらく眠れば収まるんだ。でもこんな時に。千晶さんを助けないといけないのに」

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