第38話

「ったく、俺が車で事故ったことあんのかよ。おい、千晶。お前いつからそんなに心配性になったんだ? 以前のお前ならもっとやれって言ってたぞ」


「あなたは……」


 千晶は信じられないものを見るような目を向ける。おかしい。前の彼ならもっと私を気遣ってくれていた。多少は調子に乗って無茶をすることもあったが、私が嫌がるそぶりを見せたらすぐに止めて謝ってくれた。それが今では、まるで子供のように身勝手な振る舞いが目立つようになっている。車を運転している時はより顕著けんちょだった。


 ふてくされたような横顔がまるで別人のように見えてくる。彼はこんな顔をしていただろうか? どこか常軌じょうきいっしているような目付きと、いつも苛立いらだっているように忙しなく動かしている鼻筋。金髪やタトゥーだけではない。内面の変化が外見にも影響を与えているようにも見える。その理由を考えると、聞かざるを得なかった。


「ねぇ、大我」


「あぁ?」


「……本当に、使ってないよね。大麻」


 千晶は意を決して尋ねる。一緒に暮らしているが今までそんな様子は一切なかった。しかし彼がそんな物を所持しょじしていたことも知らなかった。隠しごとがあったことだけは事実だった。


 数秒間の沈黙ののち、大我は表情も変えずにただ舌打ちした。


「ねぇ……」


「いきなりなんだよ。車振ったからラリってんじゃねぇかって? いいな、それ。ラリー走行ってか」


「ふざけないで、真剣に聞いてるの。ずっと思っていたから」


「はぁ? 何言ってんだよ。千晶も裁判で聞いただろ。被告に大麻の使用は認められないって。俺は国からお墨付すみつきをもらってんだよ」


「私は今の話をしているの。ねぇ、隠しているなら言って。私、もうあんな思いしたくない。いきなり家に警察が来るなんて耐えられない」


「おい、何疑ってんだよ。どこにそんな証拠があるんだよ。出してみろよ」


「証拠じゃないでしょ。大我、ちょっとおかしいよ。仕事が変わって、あんな友達と会うようになってから、どんどんずれてきているよ」


「俺のツレを悪く言うんじゃねぇよ」


「私たちは夫婦でしょ? 自分で気づかないの? 今の大我、他人が見たら絶対悪い人だと思われるよ」


 千晶はせきを切ったように訴える。やはり普通ではない。こんなに物分かりの悪い男ではなかった。真面目な話を茶化ちゃかすようなこともなかった。胸の奥で疑いの念が高まり続ける。その下の胎児まで影響されないかと不安になったが、もう止められなかった。


「お願い、大我。子供が生まれるんだよ。大我の息子だよ。ちゃんとしようよ。私も協力するから。一緒に頑張ればきっとうまくいくから、ね」


「おい、千晶」


「だから正直に話して。まだ大麻を使っているの? 私、誰にも言わないから。今なら誰にも知られずにやめることだってできると思う。これ以上馬鹿なことはしないで!」


 その時、目の前に金色の腕時計を着けた大きな手の甲が見えた。


 次の瞬間、鼻に衝撃を受けてヘッドレストに後頭部を打ち付けた。


「黙れよ……ゴチャゴチャ言ってんじゃねぇぞ、千晶」


 大我の低く、冷たい声が左耳に聞こえる。大きな石を顔に打ち付けられたような衝撃のあと、火が付いたような熱が目と鼻と口に広がった。


「あ、ああ……」


「お前が悪いんだろうが! なんでお前が俺を疑ってんだよ! 何が正直に話せだ。偉そうに言ってんじゃねぇぞ!」


 強い目の痛みとともに涙があふれ出して、ようやく殴られたと分かった。初めて他人から、男から殴られた。ふざけて叩かれたのではなく、怒りが拳となってぶつけられた。恐怖が全身を駆け巡り、体が小動物のように萎縮いしゅくする。震えが止まらない。膨らんだ腹に真っ赤な血が落ちて、鼻水ではなく鼻血を流しているのに気がついた。


「なぁ千晶」


「ひっ」


 短く悲鳴を上げて体が右側に退しりぞく。頭の中が真っ白になって、もう何も考えられない。うつむいた顔を上げられず、大我の目も見られない。疑念も怒りも信念も吹き飛ばされて、ただ殴られる恐ろしさだけに支配されていた。


「この馬鹿が……俺の女なら、黙って俺に従ってりゃいいんだよ。怒らせんじゃねぇよ。分かったか」


「あ、は……」


「おい!」


「はい、ごめんなさい……」


 千晶は頭上に響く大我の怒号どごうに即答する。とっさに謝ることが先決だと本能的に判断していた。彼を怒らせてはいけない。高速道路を走る車内からは逃げ出すこともできない。ひたすら身を固くして、自分とお腹の子を守るしかなかった。それ以外、もうどうすることもできなかった。


 それから千晶は大我に逆らうことなく、疑うことすらできず、顔色をうかがいながら生活を共にした。出産した息子は彼の一存で泰輝たいきと名付けられて、誰にも頼れず一人で育て続けた。やがて養育費に困窮こんきゅうするようになったので、泰輝を夜間保育所に預けて『プロテア』で働くようになった。大我は仕事が忙しいと言ってほとんど家に帰らなくなり、時折ふらりと立ち寄っては金を奪って出て行った。千晶は従順な妻に徹していたので、たまに腹を殴られるだけで済んでいた。そんな日々が、およそ一年半続いた。


 そして愛葉大我は、今度は覚醒剤の所持と暴行事件を起こして再び逮捕された。


 半年間の裁判ののち、執行猶予の付かない懲役七年の刑罰が確定して、ようやく千晶の前から姿を消した。



二十二


【8月20日 午後6時22分 国道24号線】


 勢いを増した雨の中、千晶は歯を食いしばってハンドルを握り締める。逃げたい思いだけがフロントガラスを突き抜けて先へと進み続けて、そのもどかしさに焦りと苛立いらだちを感じていた。


「昔の夫? 戸村くんの前にも結婚していたの? 千晶さんは」


 龍崎が驚いて声を上げる。当然ながら戸村もそこまで彼には話していなかっただろう。


「そんな奴が、どうしてこんなことを? どうして千晶さんを怖がらせるようなことをするの?」

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