第37話

 大麻の所持で逮捕された夫は、裁判により懲役ちょうえき一年六か月、執行猶予しっこうゆうよ三年の判決が下された。これは一年六か月間を刑務所で過ごすか、三年間犯罪を起こさずに日常生活を送るかを選択できる判決で、当然ながら大我は刑務所へは行かず家へ帰ってきた。裁判では所持していた大麻が未使用で、他者への販売や譲渡じょうとも確認されなかったこと。また初犯の上、結婚一年で妻が妊娠していることも情状酌量じょうじょうしゃくりょうの判断材料となった。なお大我は大麻の入手先として、勤務先の客からすすめられて断り切れなかったと供述きょうじゅつしていた。


 こうして大我は元の生活へと戻ったが、職場の中古車販売店はセールスマンへの復帰を認めず、本人が言うには使つかぱしりのような仕事を押し付けられたにクビを切られた。そしてしばらく無為むいな日々を過ごしたのちに、中学生時代の同級生がやっている自動車修理工場へ勤めることになった。


「ねぇ、大我。本当に広島まで行くの?」


「あぁ? 広島まで行くかよ。くれだ、呉」


「でも同じくらいの場所でしょ? ちょっと遠すぎない?」


「お前が行きたいって言ったんだろ。呉の自衛隊基地を見たいってよ」


「それ、去年の話だよ。それに私は賛成しただけで、言い出したのは大我だよ」


「賛成したら言ったも同然だ。わがまま言うなよ。千晶は俺に付いてくればいいんだよ」


 大我は荒っぽくアクセルを踏んで速度を上げる。出会った頃から千晶は大我に車で色々なところへ連れていかれている。街を見渡せる六甲山ろっこうさん、海をのぞ天橋立あまのはしだて、スーパーカーのレースが開催されていた鈴鹿すずかサーキット。十代の千晶にとっては全てが新鮮で、驚きの世界を体験できた。また車のことや世の中のことなど、さまざまな仕組みや常識も教わってきた。それでいつしか千晶は大我の言いなりになり、彼の行動に異を唱えることもできない関係となっていった。


 しかし妊娠が分かってからは、彼に従い続けることに不安を抱くようになっていた。男には理解できない体調や心理の変化に気づくことが多くなってきた。さらに彼が逮捕されてからは、彼自身にも疑問を抱くようになった。大麻を持っているなど思ってもいなかった。店の客から勧められたという話もおよそ信じられるものではなかった。


「大我、ちょっとスピード速過ぎない?」


「こんなの普通だろ。千晶が早く行きたそうに言うからよ」


「でも、あんまり速いと監視カメラに撮られるんでしょ?」


「そんな間抜けするかよ。この辺のオービスは全部頭の中に入ってるよ。心配すんな。呉なんて近場、三時間で行ってやるよ」


 大我は慣れた片手運転で前方の車を次々と追い抜いていく。どうやって手に入れたかも知らないドイツ車は修理工場で充分にチューンナップされており、雨天の高速道路でもアスファルトに吸い付くような安定性と操作性を発揮している。だからといって加速による恐怖心は薄れるものではない。千晶は効き過ぎた冷房の寒さも相まって胃に痛みを感じていた。


「そんなに急がなくていいから。大体、大我は執行猶予中なんだよ。警察に捕まったら駄目なんだよ」


 執行猶予とは言葉通り、刑罰の執行まで猶予を与えるという意味だ。その間に再び逮捕されれば、当然猶予は取り消しになった上に、刑罰も前回分が加算して執行される。だからその期間は慎重に、つまり一般人と同じく丁寧な生活を送る必要がある。彼が逮捕されたことで得た知識だった。


「バーカ、つまらねぇこと思い出させんなよ」


 大我は低い声でそう返すと、露骨ろこつに音を立てて舌打ちした。


「執行猶予が取り消しになるってのは、警察に逮捕された時なんだよ。スピード違反で捕まって牢屋にぶち込まれた奴なんていないだろ。青切符あおきっぷを切られるだけじゃ関係ないんだよ。まあ、俺はそれすらさせないけどな」


「でも……」


「それとも千晶が運転代わってくれるのか? その腹で。シートベルトが食い込んでるぞ」


 大我は笑うが千晶は呆気あっけに取られて言葉を失う。なんて浅い考えだろう。スピード違反なら罰金と減点で済むかもしれないが、他人の車に衝突すれば事件になる。もし死亡事故になれば逮捕される可能性も充分にあるだろう。だがそれを話しても不機嫌になるだけなので何も言えなくなってしまった。


 大我は近頃、性格がますます荒っぽくなっている。中古車販売店に勤めていた頃は身なりもしっかりしていて、親切で言葉遣ことばづかいにも落ち着きがあった。しかし今は言動げんどうが乱暴になり、虚勢きょせいを張るような態度も目立つようになっていた。髪を金色にしたり腕にタトゥーを入れたりしたのも最近のことだ。恐らく新しい勤務先の友達が良くないのだろう。以前に会っていた車好きの仲間たちは離れ、代わりにたちの悪そうな者たちとの付き合いが増えた。芯のある男と思っていたが、おだてられると調子に乗ってしまう、周囲に流されやすい面もあると気づいていた。


 突然、車体が左右に大きく揺れ出した。


「な、何? どうしたの大我」


「慌てんなよ。車の性能をチェックしているだけだ」


 大我は欠けた歯並びを覗かせながら、ハンドルを勢いよく左右に回して車体を振る。千晶は予期できない慣性かんせいに付いていけずセンターピラーに強く頭をぶつけた。


「こ、こんなところでしなくてもいいでしょ。危ないよ」


「危なくねぇよ。時速100キロえでやるから意味あるんだよ。路上でタラタラ走りながら振っても意味ねぇだろが」


 さらに急ブレーキと急発進を繰り返してシーソーのように車体を前後にも揺らす。シートベルトに腹を圧迫されて、慌てて隙間に手を入れて支えた。


「おいおい、サス、固すぎるだろ。なんだよこれ、レース仕様かよ」


「ちょっと、もうやめて、大我」


「あぁ? 何びびってんだよ。俺の女ならこんなの平気って言えよ」


「そんなわけないでしょ……お腹に響いて危ないから」


「ああ……いやいや、俺の子供なら耐えられるだろ。特訓だ特訓。これで車好きになったりしてな」


「なるわけないでしょ! 変なこと言わないで!」


「冗談だよ。分かった、分かった」


 大我はつまらなさそうな顔で舌打ちをして通常の運転に戻る。千晶は両手を腹に置いて荒れた息を落ち着かせた。胸の奥で心臓が激しく鳴り続け、全身から冷たい汗がき出す。座っているシートの下が急に心許こころもとなく感じて、一直線の高速道路を異常な速度で走り続ける車に恐怖を覚えた。

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