第36話

「嘘でしょ……」


 千晶は目をそむけて正面を向く。しかしクラクションの音が無視するなと言わんばかりにあおり立てる。渋滞気味で前の車が詰まりアクセルが踏み込めない。肺を圧迫されたような息苦しさを覚えた。


「あれ、どうしたの? 千晶さん。コンビニが通り過ぎていくよ」


 龍崎が助手席の窓から外を見ながら尋ねる。


まるんじゃなかったの? 黒い車もすぐ後ろまで来ているのに」


「駐まりません……絶対に駐まりません。駐まったら何をされるか分かりません。危険です」


「危険? そう、危険だよ。でもさっきは……」


「別人だったんです! 私が思っていた人とは。あの車に乗っているのは、会ってはいけない奴なんです!」


 千晶はのんびりと走る前方の車に向かって叫ぶ。思わずクラクションに手を伸ばしたが、無駄な行為と思い直してハンドルを叩いた。なぜ、あいつがこんなところにいるの? なぜ私を後ろから煽り続けるの? 疑問が頭の中を高速で駆け巡る。だが今さら答えを知っても意味はなかった。


「そう、別人だったの。会ってはいけない奴なんだ。うん? じゃあ千晶さんは、あの車の運転手が誰か分かったの?」


 龍崎の質問に千晶は歯を食いしばってうなずいた。


「愛葉、です。黒い車のドライバーは、愛葉大我たいがです」


 そして、続けて言葉を付け加えた。


「……私の、昔の夫です」


 運転中のせいで、うなだれて両手で顔をおおうこともできない。代わりに必死で目を見開いて、サイドミラーに映る悪魔のような腕を忌々いまいましげににらんだ。


二十一


【6月29日 午前11時42分 山陽さんよう自動車道】


 芹沢千晶は高校を卒業してすぐに自動車の運転免許証を取得しゅとくした。


 元々、車はあまり好きではなかった。幼い頃に父を交通事故で亡くしてからは自家用車を所有しょゆうしておらず、たまの機会にタクシーを使い、また近所の人や友達の親の車に同乗させてもらう程度だった。しかし公共交通機関が不十分な奈良では不便に感じることも多く、この歳になるといつも他人の運転に頼るのもわずらわしくなっていた。


 それで運転免許証を持たない母の勧めもあり自分で車を持とうと決心した。父は車によって命をたれたが、車は単なる乗り物に過ぎない。嫌って運転しないことに意味はないと割り切って受け入れるようになった。 


 結婚相手の愛葉大我は4つ年上の23歳。大阪で中古車販売店に勤務するセールスマンで、たまたま客としてやってきた千晶の担当として出会った。日に焼けた浅黒い肌に涼しげな目元をした背の高い好青年で、街で雑誌のモデルにスカウトされたこともある美男子だった。それが十代の千晶を子ども扱いせずに、まるでお姫さまの相手をするように紳士的な物腰で親身になって対応してくれた。


 車を購入したあとも大我との付き合いは続き、彼から運転技術や整備方法など車に関する全てを教わった。また気さくな車好きの仲間たちを紹介され、車関係のイベントに誘われるなど周囲との付き合いも深まった。お陰で車を移動手段としか考えていなかった千晶も、積極的な車好きへと変わっていった。もちろん、その意識の中心には大我への恋愛感情があった。そして一年ほどのちに彼からプロポーズを受けて19歳で結婚した。


 振り返れば性急せいきゅうな判断だったのかもしれない。しかし幸福な夢のさなかに、腰をえて熟考するなど無理な話でもあった。それに考えたところで結果は変わらなかっただろう。二人で望んだささやかな結婚式のあと、桜川のマンションに新居を構えた。それからしばらく経って、20歳になってすぐに妊娠が発覚した。計画していたわけでもないのに、全てが望み通りに進んでいる気がした。きっとあの時、二年前に車を運転しようと決めた瞬間、運命のエンジンに火が入って走り出したのだろう。そんな詩的な感覚に酔いしれていた。


 しかし、それから一か月も経たないうちに、大我が大麻たいまの所持で警察に逮捕された。


 雨の降りしきる梅雨つゆ時期の午後、千晶は愛葉大我の車に乗せられて山陽自動車道を西向きに走行していた。兵庫県の神戸市から山口県の下関しものせき市までを結ぶ長大な高速道路で、瀬戸内海側の岡山県と広島県を経由している。大阪を出てしばらくは渋滞が続いたが、神戸ジャンクションで中国自動車道と分岐してからは走りやすくなっていた。ただ瀬戸内海側といっても海が見えるわけではなく、ほとんど内陸部を通っているので代わりえのしない山間やまあいの景色ばかり続いていた。


「なぁ、千晶。広島の奴に広島焼きって言ったらキレるって知ってるか?」


 左から大我の低い声が聞こえてくる。左ハンドルのドイツ車なので、千晶の座る助手席は右側にあった。振り向くと彼はサイドウィンドウのへりひじをついて金髪の頭を傾けたまま、金色の腕時計を着けた右手だけでハンドルを握っている。黒いTシャツの袖口そでぐちから、わずかにタトゥーが覗いていた。


「広島焼きって知ってるだろ? お好み焼きの下に焼きそばを敷いたような奴。他にも色々な種類があるらしいけど、大体似たようなもんだ。で、それを広島焼きって言ったら、違うって言って怒るんだよ」


「……どうして?」


「お好み焼きはうちが本場だからってよ。広島焼きなんて物はない、あれはお好み焼きなんだって。広島風お好み焼きも許さない。お前らこそ大阪焼きって名乗れって言うんだよ。おかしいだろ」


「大阪焼きなんて聞いたことないけど」


「だろ? でも俺の後輩で広島の奴がそう言うんだよ。だから仲間内でそいつの渾名あだなを広島焼きにしてやったんだ。おい広島焼き、早く来いよとか言って。そしたらそいつ真っ赤な顔して、大我さんマジ刺していいっすか、とか行ってきやがる。ウケるぜ」


 大我はそう言って甲高かんだかい声で笑う。千晶は黙って胸の下で膨らんだ腹に手を添えていた。安定期を迎えて胎児はますます成長し、体は重く気持ちは落ち着かない。本当は家で過ごしたかったが、夫が広島へ行くと言いだしたので同乗することになった。

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