第35話

「運転せずに私が戻るまで待っていてください。分かりますよね」


「千晶さんが戻るまで待つ。そう、そうだね。そうするしかないよね」


 龍崎は何度もうなずいて了解する。花島もこの車に高齢者が同乗していることを知れば無茶な行動は取らないだろう。さいわいいにも煽り運転の被害は龍崎の送迎が中止になっただけだ。事故を起こす前に思いとどまらせたい。放火の罪は不問にできないが、可能ならば自首もうながしたい。かつての出来事が恨みの発端ほったんなら、こちらから謝罪してもいい。とにかく、これ以上罪を重ねさせないことが彼のためでもあった。


でも、根岡康樹のき逃げとは無関係だったの?


「……あそこのコンビニにまります」


 想像だけでは解明しきれない疑問はあるが、決めた行動に変わりはない。走行する道の遠くにコンビニエンスストアの看板が見える。見慣れたチェーン店で、恐らく国道沿いにありがちな駐車場の広い店舗だろう。あそこなら店にも駐車場にも人はいる。通報すれば警察も駆けつけやすい。もしいきなり襲われても切り抜けられる。千晶は龍崎の癖がうつったかのように、思考の一つ一つにうなずいて確認した。


 その時、右耳のイアホンマイクから着信音が聞こえてくる。


 スマートフォンの画面には【着信・花島常盛】と表示されていた。


「花島さん?」


 千晶は前方とスマートフォンの画面との間で視線を何度も行き来させる。このタイミングで、三年ぶりに彼から着信がきた。やはり無関係ではなかった。そして考えていることも同じだった。煽り運転でおどすことに飽きたのだろう。どんな恨み節を言われるかは分からないが、会話ができれば説得の余地はある。コンビニエンスストアの駐車場で話し合おうと持ちかけられる。千晶はハンドルから離した右手で強く拳を握ってから、人差し指を立てて【応答】の表示をタップした。


「もしもし……」


『おい、ミライか! ミライだな!』


 イアホンの向こうから男が太い声で千晶の源氏名げんじなを叫ぶ。聞き慣れない乱暴な口調に戸惑ったが花島の声に間違いなかった。怖がらなくていい。毅然きぜんとした態度でのぞめば彼なら分かってくれる。お久しぶりです、とでも返答すべきかと迷っているうちに、花島がさらに声を上げた。


『君はどこにいる? 家か? 会社か? いや、どこでもいい。とにかく今すぐそこから逃げろ!』


「え?」


 一瞬、千晶は急ブレーキを踏んだように体がねる。慌ててハンドルを握って姿勢を整えた。今、花島はなんて言った? 逃げろ? どこへ? 予想外の言葉を投げかけられて理解に手間取った。


「は、花島さん? 一体何を……」


『黒い車に乗った奴が君のところへ向かっている! 見つかる前に逃げるんだ!』


 続けて花島の激しくむ音が聞こえた。ひどく耳障みみざわりで、苦しげな姿が目に浮かんだ。これはなんだ? 彼はどうした? 彼の身に何が起きているのか全く想像できない。ただ、最も重要な事実だけは即座に理解していた。


 花島常盛は、黒い車のドライバーではなかった。


「あの、花島さん、なんの話ですか? どういうことですか?」


『理由なんて知るか! いきなり訳の分からない奴に襲われて、しばられて、こんなところで捨てられたんだ。畜生ちくしょう、ここは南港なんこうか? 大阪南港の橋の下か! 俺はこんな、誰も来ないところにきのうの夕方から置き去りにされたんだ!』


「南港に、きのうの夕方から……」


『君のせいだ! おい、ミライ! 君は何をやったんだ! あいつは君のことを捜しているぞ! 俺は知らないって言ったんだ! 三年も前だ! 俺を裏切ったキャバ嬢の居場所なんて知るわけがない! それなのに、あいつは何度も俺を殴って、足も……くそっ、絶対に折れてるぞ!』


「誰ですか、その人……」


『知らないって言ってるだろ! 金髪で刺青いれずみを入れた、いかれた男だよ!』


「金髪の……」


 さあっと、千晶は血の気が引くのを感じる。花島が言ったその特徴だけで、一人の男の姿が思い浮かんだ。


『だから俺は、君の居場所をしゃべった。奈良にある『きたまちケアタクシー』って会社で、介護タクシーのドライバーをしているはずだって。そしたら俺の車を盗んで走って行ったんだ。あれは俺の車だ! 時計も! まだローンも払い終えていないのに!』


「私の居場所を話したんですか、その人に……」


『話して何が悪い! 俺は殺されるところだったんだぞ! でもこの電話番号は言わなかった。スマホも見られたが、この電話番号は【秘書3】で登録していたから気づかれなかった。踏み潰されたがまだ動く。海に捨てられなくて良かった』


 早口でまくし立てる花島の声に、かつて漂わせていた大人の余裕は全く感じられない。激しい暴力を受けて、命からがら逃げてきた弱々しい中年男になっていた。


「あいつがくる。あの男が……」


 千晶は寒気を感じて奥歯を震わせる。黒い車を運転していたのは、花島常盛ではなかった。彼は被害者だった。きのうの夜に暴行を受けて車を奪われ、橋の下に捨てられた。その後、車は天王寺の交差点で根岡康樹をき殺し、心斎橋の『プロテア』に火炎瓶を投げ込んで、奈良で紀豊園へ向かう私の車を見つけた。やはり事件は全てつながっていた。今度こそ間違いではない。そう確信させるだけの過去があった。


『おい、ミライ! 聞いているのか! 嘘じゃないぞ! 君が狙われているんだぞ! 奴は君を知っているぞ! 俺も知らなかった、君の本名を呼んでいたぞ!』


「私の本名……」


愛葉あいば千晶はどこにいるって! 君の名前だろ? いいか、とにかく逃げろ! 俺はこのあと警察に通報する。もう君とは一切関係ないからな!』


「愛葉……」


 ぷつんっと通話が途切れて花島の声が消える。代わりに聞こえてきたのは、真後ろから響くクラクションの大音量だった。いつの間にか、あの黒い車が後ろにいる。ルームミラーの視界がふさがれている。右のサイドミラーには、運転席の窓からだらりと垂れた腕が雨に打たれていた。


 びっしりと青黒いタトゥーの入った太い右腕に金色の腕時計を着けた、左利ひだりききの男。その腕がゆっくりとひじを曲げると、まるで見ているのを知っているかのように、こちらに向かって中指を立てた。

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