第34話

 あの日、千晶は花島からの誘いを断って、彼の期待にこたえることができなかった。恋人にするため店に通い詰めて、決して少なくはない金銭と、何よりも貴重な時間をみつぎ続けてきた。それなのに、ついに望む状況が訪れたのに、千晶自身から拒絶きょぜつされてしまった。なんの約束も交わしていなかったが、反故ほごにされたという思いは強く感じたはずだ。


 しかし、彼が裏切られたとつぶやいたのは、そこではなかった。


 本当の意味に気づいたのは、それから一か月ほど経ってから、彼が大阪府警に逮捕された時だった。


 粉飾決算ふんしょくけっさんによる証券しょうけん取引法とりひきほう違反いはん。花島は架空かくうの取引をでっち上げて会社の売上を増やし、大幅な黒字に見せかける犯罪を行っていた。主犯は花島自身と関連会社の社長、そして書類の作成を依頼された公認会計士。いずれもかつて『プロテア』で見かけたことのある男たちだった。


 千晶は事件に一切関わっておらず、花島の逮捕もニュース記事で初めて見たに過ぎない。ただ店長は、三人が『プロテア』で会っていたことが事件発覚のきっかけになったのではないかと推測していた。タカとユージと名乗った謎の二人組は刑事か記者だったのだろう。千晶がそれとなく尋ねられるままに応じたことが、花島の逮捕につながった。


 裏切るつもりはなかったのに……。


 非難されるいわれはない。だが客の情報を他の客に話すという、夜の街でのルール違反を犯してしまった。いや、それすらもしていない。二人組の笑い話に誘導されて相槌あいづちを打っただけだった。


 しかし結果的に花島は逮捕され、莫大ばくだいな罰金がせられて、彼が築き上げたグループ会社は解体された。アパレル会社や飲食店は今も存続しているが、そこに彼の椅子は存在しない。インターネットで彼の名前を検索しても事件以降の記事はなく、現在の動向は全く分からなくなっていた。


 千晶は花島の冷酷れいこくな視線を背中に感じる。信頼を寄せていた男の豹変ひょうへんを想像して、シートに座っていられないほどの不安を抱いていた。あの花島がこんなことをするはずがない。しかしあの頃の彼はもういない。犯罪に手を染めて、会社を失って、三年の年月が経っていた。その間、延々と恨みを募らせていたとしたら、店を放火し私の車を煽って追い回すようになっても不思議とは思えなかった。


橿原北かしはらきた大和高田やまとたかだ、出口。ここは橿原なのか?」


 龍崎が道路標識を読み上げる。走行している京奈和自動車道はまだ和歌山市までの全線開通には至っておらず、奈良の橿原市で一般道へと下ろされるようだ。高速道路は何年もかかって道を作る一大事業なので、大体は建設が完了した区間から断続的に順次開通されていく。二車線の道路は出口へ向かって一車線へと減少し、行列がせばまり前方の車両が詰まり始めた。


「千晶さん、速度を落とすと危ない。追いつかれてしまうよ」


「この状況では動けません。大丈夫です。黒い車もまだ近づいていません」


 高速道路は黒い車がやってくる前に一時的な渋滞に入った。今はルームミラーにも映っていないが、恐らく五台ほど後ろを走っているだろう。下り口から連結している一般道は片側二車線の国道24号線になるらしい。幹線道路らしく道幅は広く、左右どちらの車線も混雑していた。


「高速を走るよりはいいかもしれませんが……」


 千晶は忙しなく目と首を動かして周辺の状況を確認する。もはや『きたまちケアタクシー』の送迎可能エリアからは大きく外れ、千晶も走ったことのない道へと進入していた。高速道路と違って容易よういには他の車を追い抜けないので、黒い車もすぐには真後ろまで辿り着けない。一方で千晶も追跡からのがれるには難しく、このまま紀豊園へ帰るわけにもいかなくなった。


「ああ、黒い車がくる。幽霊が、僕の頭に入ってくる。今はいけない。追い出さないと……」


 龍崎は右手を胸の前で盛んに動かしている。黒い車が戻ってくるまでに彼を紀豊園へ送り届ける計画はこれで不可能となってしまった。やはりこのまま解決するより他にすべがない。いつまでも逃げ続けるわけにはいかない。元より自分がいた種なら、自分が始末すべきだった。


「土地勘がないのでまだ決められませんが、どこか適当な駐車場へ入って車をめます。そこで黒い車のドライバーと会うことにします」


「ああ、会うのかい、千晶さん。いや、会っちゃいけない。車を駐めると危ないよぉ」


「車を駐めると危ないのなら、もうとっくに追突されています。初めてこの車の後ろに付いた時でも、高速道路で追いかけ回していた時でも、その機会はいくらでもありました。でも黒い車は私を怖がらせるだけです。渋滞になると遅くなりますし、赤信号にも停車しています。直接危害を加える気はないはずです」


「どうしてそう言い切れるの? どんな奴が運転しているかも分からないのに。あれは普通じゃないよ。千晶さんは車を降りてはいけないよ」


「誰が運転しているかは見当が付いています。私が知っている人なら説得できるはずです」


 千晶は力強い眼差まなざしで前方を見つめる。花島常盛。店と私に恨みを抱き、今の職場も知ってる男。彼なら店に火炎瓶を投げ込み、私の車を煽る動機もある。しかし彼ならば話し合いに応じてくれる気がする。ほんの三年前までは紳士的な初老しょろう上客じょうきゃくだった。また逮捕されるまではやり手のビジネスマンでもあった。損得勘定そんとくかんじょうとらえればこれがいかに無意味な暴走か理解できるだろう。


「心配しないでください、龍崎さん。きっとうまくいきます」


「そうか、うん……黒い車からは逃げられない。車を駐めて説得するしかないんだ。落ち着け。千晶さんならうまくやってくれる。ああ、どうしてこんなことになった。僕はどうすればいい」


「龍崎さんは、そのまま助手席に乗っていてください。私だけ降りて会います」


「そう、千晶さんだけ……でも僕は車を運転できない」

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