第33話

「そうか……まあ、今すぐに結論を出せとは言わない。君も色々と思うことがあるだろう」


「そう、ですね……」


「でも、決めるなら早いほうがいい。俺はあまり長く待つのは好きじゃないからな」


 ふと、花島の声に冷たい響きを感じる。ぜひお願いしますと喜んで即決すると思ったのに、肩透かたすかしを食らった気分になったのだろう。千晶は返答できない。彼を失望させたのは自分のせいだ。だが、どうしても彼と恋人同士になる姿が想像できなかった。


「ミライさん、覚えておくといい。人生は釣りと同じだ。タイミングを逃したら獲物は二度と手に入らない」


「花島さんは、魚釣りがお好きですからね」


「魚釣りはせっかちな奴のほうがうまい。気長な奴は釣れない場所でいつまでもぼんやりとしている。それで結局何も釣れずに終わるんだ」


「せっかち……そういえば、先週プロテアに来たお客さまも、花島さんのことをそう言ってました」


 千晶は話題を変えるつもりで話す。


「せっかちな上に手抜かりがないから、付いていくのが大変だって」


「誰だ? それは」


 すると花島はにわかに目を鋭くさせて低い声で尋ねた。


「俺の知っている奴か? 君は前に見たことあるか?」


「あ、いえ、悪口じゃないんです。凄い人だって、尊敬していると言ってました」


「怒っていない。ただ誰のことか気になっている」


「……私がお相手をしたのは初めてでした。花島さんから店を紹介されたと。ええと、タカさんとユージさんです。30歳くらいで黒いスーツの二人組でした」


 千晶は花島の眼光がんこうにやや焦りを感じる。何かまずいことでも言ったのだろうか。彼は太い腕を組むと椅子に背をらして天井を見上げる。名前に聞き覚えがないのだろうか。夜の店で偽名や渾名あだなを名乗る客は珍しくない。


「花島さんのお知り合いではなかったのでしょうか? でも……」


「どんな話をした? そいつらと」


「どんな……私は話すと言うより相槌あいづちを打つほうが多かったです。花島さんがどういう仕事をされているかとか、どんな人と交流があるかとか、お二人とも本当によく知っていて、ほとんど自慢話を聞かされているみたいでした」


「ふざけた真似まねを……」


 ちょうどその時、店の者が新たな皿を運んできた。しかし花島は手を上げて制すると二言ふたこと三言みこと伝えて下がらせた。


「急用を思い出した。ミライさん、今日はここまでにしよう」


「え?」


 花島はすっと席を立つと乱暴にバッグをつかむ。突然の行動に驚きつつも、千晶も慌てて立ち上がった。


「あの、いきなりどうされたんですか? このあとお店は……」


「キャンセルする。タクシーをめてくれ」


「あ、はい」


 千晶は了解して先に店を出る。いつの間にか、花島の顔から余裕の笑みが消えていた。様子がおかしい。こういう時はおねだりするよりは素直に従うのが彼の好みだ。繁華街は夕暮れを迎えて人が増え始め、タクシーも回遊魚かいゆうぎょのようにつらなって通りを巡っている。手をげて呼び止めることもなく、所作しょさしたドライバーが後部座席のドアを開けつつ目の前に停車した。


「ありがとう」


 背後から花島に軽く肩を叩かれる。振り返ると彼は手元でスマートフォンを操作しながら、追い抜いてタクシーに乗り込んだ。彼が何に苛立いらだっているのか分からない。千晶はいつもの習慣で背筋を伸ばして頭を下げた。


「花島さん、今日はお忙しい中、お誘いを受けていただきありがとうございました。お店に来ていただけないのはとても残念ですが、またよろしくお願いします」


「ああ、またな」


「あの……私、何かしてしまったのでしょうか?」


 千晶は恐る恐る質問する。花島は手を止めると、ふっと溜息をついてからようやくこちらに目を向けた。


「釣られたのは、俺のほうだったか……まさか君に裏切られるとは思わなかった」


「え……」


 花島はそれだけつぶやくと再びスマートフォンに目を移す。千晶は聞き返そうと口を開いたが、それより早くタクシーのドアが重い音を立てて閉じられた。車はゆっくりと車列しゃれつに戻って賑やかな街から去って行く。遠ざかるテールランプが静かな怒気どきに満ちた眼差まなざしのように赤く点灯していた。


それ以降、花島常盛が『プロテア』に来ることはなかった。



二十


【8月20日 午後6時11分 京奈和自動車道】


 重苦しい空からこぼれ落ちた大粒の雨が、ヘッドライトの強い光を乱反射させている。遠くに見える黒い車が、他の車を押し退けるように追い越しながらこちらに迫りつつあった。


「あれぇ、どうなっているの? あの車、衝突事故を起こしたんじゃなかったの?」


 龍崎は後ろを振り返ったまま呆然ぼうぜんとつぶやく。違う。衝突事故を起こしたのは見知らぬ別の車だ。危機が去ったと思い込んだのは彼の勘違かんちがいだ。だが、これほど早くに戻ってくるのは千晶にとっても想定外だった。追い払われてから大急ぎで、暴走とも言える速度で引き返して来たのだろう。


「龍崎さん、前を向いていてください」


 千晶はアクセルを踏んで速度を上げる。このままでは先ほどの繰り返しになってしまう。いや、次こそは必ず悲惨な事故が起きる。煽られ続けて追突されるか、焦って運転を誤り壁や他の車に衝突するか。向かう先に道はなく、奈落ならくの底まで続くがけへと追い立てられている気がした。


「分からない。誰があの車を走らせているんだ? 本当に幽霊でも乗っているの?」


「人間です……私をうらんでいる、昔の店の客だと思います」


 冷たい目をした中年男の顔が脳裏のうりに浮かぶ。その表情には静かな怒りと、大きな失望の色が浮かんでいた。龍崎の言葉から思い出した、花島常盛の記憶。人から裏切られたと言われたのは、後にも先にもあの時だけだった。


「……とてもお世話になった人だったのに、私はひどいことをしてしまいました」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る