第32話

「他の店へ移るのか? それとも夜の仕事をめるのか?」


「夜のお仕事を辞めて、引っ越します。奈良の実家に一人で住んでいる母の具合があまり良くないので」


「それは、何かの病気か?」


「よく分かりません。いくら言っても病院に行きたがらなくて……」


 千晶は苦笑いを見せる。勝ち気で口うるさい母とは昔から性格が合わず喧嘩けんかばかりしている。そんな母がこの頃は電話で弱音を吐くようになり、それとなく一緒に住むことを望むようになっていた。仲が悪くてもたった一人の親を見捨てるわけにはいかない。また母が語る、原因不明の体調不良も気になっていた。


「私もいい歳なので、この辺りでお店も卒業させていただこうかと」


「まだ25歳じゃないか。それともサバを読んでいたのか?」


「正真正銘の25歳です。でも新人じゃありませんし、ずっとこのお仕事を続ける気もないので」


 夜の店で働く女にとって、25歳は一つの節目になるかもしれない。多くの先輩たちを見ていると、それより先はこの業界に生涯しょうがいを捧げる覚悟があるように感じていた。より大きな店へ移籍するか、交流を広げて仕事上のパートナーを見つけるか、独立して自ら店を始めるか、いずれにしても目標を定めて動き出す必要がある。千晶にはそこまでの意志はなかった。


「母のことだけでなく色々と考えた結果、そろそろ潮時しおどきと思うようになりました」


「すぐに辞めるのか?」


「お店の都合もあるので、あと3か月か、半年くらいは続けます」


「そのあとはどうする? 奈良へ帰って何をする気だ?」


「介護タクシーの会社に就職するつもりです。障碍者しょうがいしゃや高齢者の送迎が中心のタクシードライバーです。奈良市にある『きたまちケアタクシー』という会社で、内定ももらっています」


「タクシードライバー……何もかも準備済みなんだな」


「何事も段取りが肝腎かんじんと、花島さんの本にも書いてありましたので」


「書いたのはゴーストライターだ。俺はまだ読んでいない」


 花島は小鉢こばちに入った揚げ物を大きな口に運ぶ。魚のすり身に梅をからめて、衣を付けて油で揚げた一品だった。飲食店のオーナーでもあり店に詳しく、店内の雰囲気から出される食事の質や価格帯までよく把握はあくしている。ただ彼はビジネスが好きなだけで、自分が食べることに関してはあまり興味がないことを千晶は知っていた。


「つまり、俺との付き合いもここまでにしたいと」


「プライベートの電話番号はそのまま使いますので、交流は続けていけたらと」


「キャバクラ時代の客と会っているなんて、君の次のステージでは体裁ていさいが悪いよ」


「そうですね……」


 千晶は目を伏せて桜の入った煎茶に口を付ける。さびしくないと言えば嘘になる。資産家で頼りがいのある彼には物心ぶっしん両面で大きなサポートを受けてきた。出会った頃は難しいビジネスの話になんとか食らいつき、過剰かじょうめていい気分にさせようと試みては空回からまわりすることも多かった。しかし、それよりも素直な意見と感情を求められてると気づいてからは、ずっと会話が楽になり親密になっていった。緊張感はあるものの、彼と会話をするのは心の底から楽しいと思える。存在意義を認められている気分がした。


「花島さんにはとてもお世話になったのに、申し訳ございません」


「謝ることはない。それなら、どうだろう。ミライさんにひとつ提案がある」


 花島はテーブルから身を乗り出して顔を近づけた。


「タクシーの運転手なんかじゃなく、俺の会社で働けばいい」


「花島さんの?」


 千晶は驚いて顔を上げた。


「花島さんの会社で……私は何をするんですか?」


「差し当たっては、俺の秘書だな」


「……秘書、兼、愛人ですか?」


「恋人だよ」


「冗談ですよね?」


「冗談を実現するのが俺の生きかただ。本には書いていなかったか?」


 花島は太い右手を伸ばして千晶の左手に触れる。その瞬間、胸の奥でとげが刺さったような嫌悪感と警戒心が芽生えた。


「奈良の実家へ帰るんじゃなくて、母親を大阪に呼べばいい。それで問題解決だ」


「……ずいぶんと、積極的なんですね」


「俺がどういう男か知っているだろ?」


「でも、私がどういう女かもご存じですよね?」


「子供のことなら俺は気にしないよ」


 花島は千晶の手をでて指をからめる。浅黒く日焼けした手に巻いた金時計が濡れたようにギラギラと光っている。大きく膨らみ熱を帯びた男の手指だった。


「ベビーシッターでもなんでも雇えばいい。君も一緒にいられる時間も増えるだろう」


「そうかもしれませんけど……」


 千晶は目を伏せて左手を見つめる。花島の提案は文句の付けようもない。上場企業の社長秘書。恐らく給料もタクシー会社より高く、息子にもいい環境が与えられる。これ以上ない好条件だった。


 ただ一つの問題は、千晶が花島に恋愛感情を抱いていないことだった。


「……いいお話ですが、やっぱり私に花島さんのお相手はつとまらないと思います」


「どうして? 俺のほうから誘っているのに」


「申し訳ございません」


「そんなに田舎いなかで、年寄り相手に車を走らせたいのか?」


「そんな言いかた……好きじゃありません」


旦那だんなの帰りを待っているわけじゃないんだろ? 何が不満なんだ?」


「不満と言いますか……」


 千晶が花島に期待していたのは、理想の父親だった。幼い頃に実の父を失ったために、23歳も年上の男にその代わりを望むようになっていた。前向きで、頼もしく、自分を認めてくれて、際限なく甘やかせてくれる彼はその役にふさわしく、だからこそ店の外で本来の自分をさらけ出して付き合うことができた。


 しかし、それはあまりにも身勝手な思い込みに過ぎなかった。独身の花島が慈善事業でキャバクラを訪れるはずもない。彼の目的は初めから千晶を恋人にすることだ。そのために信頼関係を築き、自分の手元に置く手段まで用意してきた。


「……ちょっと、考えたいと思います」


 千晶は左手を花島の右手から離すと小さくこぶしを作る。花島も置き去りにされた手を引いた。

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