第32話
「他の店へ移るのか? それとも夜の仕事を
「夜のお仕事を辞めて、引っ越します。奈良の実家に一人で住んでいる母の具合があまり良くないので」
「それは、何かの病気か?」
「よく分かりません。いくら言っても病院に行きたがらなくて……」
千晶は苦笑いを見せる。勝ち気で口うるさい母とは昔から性格が合わず
「私もいい歳なので、この辺りでお店も卒業させていただこうかと」
「まだ25歳じゃないか。それともサバを読んでいたのか?」
「正真正銘の25歳です。でも新人じゃありませんし、ずっとこのお仕事を続ける気もないので」
夜の店で働く女にとって、25歳は一つの節目になるかもしれない。多くの先輩たちを見ていると、それより先はこの業界に
「母のことだけでなく色々と考えた結果、そろそろ
「すぐに辞めるのか?」
「お店の都合もあるので、あと3か月か、半年くらいは続けます」
「そのあとはどうする? 奈良へ帰って何をする気だ?」
「介護タクシーの会社に就職するつもりです。
「タクシードライバー……何もかも準備済みなんだな」
「何事も段取りが
「書いたのはゴーストライターだ。俺はまだ読んでいない」
花島は
「つまり、俺との付き合いもここまでにしたいと」
「プライベートの電話番号はそのまま使いますので、交流は続けていけたらと」
「キャバクラ時代の客と会っているなんて、君の次のステージでは
「そうですね……」
千晶は目を伏せて桜の入った煎茶に口を付ける。
「花島さんにはとてもお世話になったのに、申し訳ございません」
「謝ることはない。それなら、どうだろう。ミライさんにひとつ提案がある」
花島はテーブルから身を乗り出して顔を近づけた。
「タクシーの運転手なんかじゃなく、俺の会社で働けばいい」
「花島さんの?」
千晶は驚いて顔を上げた。
「花島さんの会社で……私は何をするんですか?」
「差し当たっては、俺の秘書だな」
「……秘書、兼、愛人ですか?」
「恋人だよ」
「冗談ですよね?」
「冗談を実現するのが俺の生きかただ。本には書いていなかったか?」
花島は太い右手を伸ばして千晶の左手に触れる。その瞬間、胸の奥で
「奈良の実家へ帰るんじゃなくて、母親を大阪に呼べばいい。それで問題解決だ」
「……ずいぶんと、積極的なんですね」
「俺がどういう男か知っているだろ?」
「でも、私がどういう女かもご存じですよね?」
「子供のことなら俺は気にしないよ」
花島は千晶の手を
「ベビーシッターでもなんでも雇えばいい。君も一緒にいられる時間も増えるだろう」
「そうかもしれませんけど……」
千晶は目を伏せて左手を見つめる。花島の提案は文句の付けようもない。上場企業の社長秘書。恐らく給料もタクシー会社より高く、息子にもいい環境が与えられる。これ以上ない好条件だった。
ただ一つの問題は、千晶が花島に恋愛感情を抱いていないことだった。
「……いいお話ですが、やっぱり私に花島さんのお相手は
「どうして? 俺のほうから誘っているのに」
「申し訳ございません」
「そんなに
「そんな言いかた……好きじゃありません」
「
「不満と言いますか……」
千晶が花島に期待していたのは、理想の父親だった。幼い頃に実の父を失ったために、23歳も年上の男にその代わりを望むようになっていた。前向きで、頼もしく、自分を認めてくれて、際限なく甘やかせてくれる彼はその役にふさわしく、だからこそ店の外で本来の自分を
しかし、それはあまりにも身勝手な思い込みに過ぎなかった。独身の花島が慈善事業でキャバクラを訪れるはずもない。彼の目的は初めから千晶を恋人にすることだ。そのために信頼関係を築き、自分の手元に置く手段まで用意してきた。
「……ちょっと、考えたいと思います」
千晶は左手を花島の右手から離すと小さく
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