第31話

 その上で、龍崎は親身になって守ろうとしてくれている。今はこれほど頼もしいことはない。得体えたいの知れない恐怖の中、車の運転によってかろうじて冷静を保っていられると思っていたが、それだけではなかった。助手席に龍崎がいることで、さらに強く心をつなとどめられていた。


「龍崎さんのお陰で、あの黒い車からもなんとか逃れることができました。私一人だともっと早くに諦めていたかもしれません」


「そう、決して諦めてはいけない。諦めなければきっとうまくいくんだ。千晶さんは、そんな店を辞めて良かったよ。今の仕事のほうがずっといい。あそこは人をおかしくする」


「そこまでとは思いませんが……」


「僕の仲間もねぇ、それで身を崩したんだ。派手な女に釣られて、金を巻き上げられて捨てられた。あれだけみついだのに裏切られたと怒っていたけど、自業自得じごうじとくだよ。殺してやるなんて物騒ぶっそうなことも言っていたけど、どうせできっこない。僕もそれっきり会うのをやめちゃったんだ」


「貢いだのに裏切られた……」


 千晶はその言葉に息をんだ。店への出入り禁止にしたのは根岡康樹だけだが、暴言を吐いたり、暴力をふるったりする客は他にも何人か覚えがある。しかし、そういった客たちは初めから厄介者やっかいものの場合が多いので、そもそも長く付き合うこともなかった。


 本当に恐ろしいのは、彼ら厄介者とは対極をなす客だったのかもしれない。紳士的で、気前が良くて、何年も通い続けてくれた相手ほど、裏切られた時のうらみは深い。まやかしの恋愛感情と大量の現金が飛び交うキャバクラでは、誰の本心も見抜けるものではない。遊びのつもりが本気になってしまったなどよくある話だった。


 まさか、あの人が……。


「同士と呼べる仲間だったのに、堕落だらくしてしまったんだ。薄汚れた夜の街に心を奪われてしまった。でも僕も奴を止められなかったよ。どうしようもないじゃない。それが気晴らしになるなら仕方ないと思うしかなかったよ」


 ぽつんと、フロントガラスに水滴すいてきが落ちる。高速道路の高架から見える奈良盆地は、連なる山を支えに分厚い灰色の雲が蓋をしていた。水滴は次第に数を増やして景色に透明な膜を広げていく。千晶はワイパーを作動させて視界をぬぐった。


「……とうとう、雨が降ってきました」


「雨? 本当だ、雨が降ってきたんだね」


 龍崎は見つめていたマスコットから顔を上げて辺りを見回す。


「そうか、雨が降ってきたのか。僕は雨が好きだよ」


「そうなんですか。私は晴れのほうが好きですけど」


「雨は落ち着く。雨はみんな消してくれる。景色も、音も、嫌なことも忘れさせてくれる。雨が上がるとみんな綺麗きれいになっている。だから僕は昔から雨が好きだ」


「雨上がりは気持ちいいですからね」


 高齢者の中には雨天になると体調を崩す者も多いが、龍崎は逆に気分が良くなるらしい。若者でも厳しい夏の日射しがさえぎられて、雨音が他の音も消してくれるので、認知症も落ち着くのだろうか。


「僕は雨が好きだ。雨は僕を味方してくれる……むっ、雷だ」


「え、光りましたか?」


「光ったよぉ。雨は好きだけど、雷は嫌いだよ。ああ、まだ光っている。いや、違う。これは鏡だ。千晶さん、光っているのは後ろだ」


「後ろ?」


 龍崎は車のサイドミラーを見ながら話している。その時、ルームミラーが映し出す後方で確かに強い光を感じた。


「まさか……もう?」


「千晶さん。あれは、その、なんだ? どうなっているの? 僕は夢を見ているの? ああ、また頭の中で幽霊が悪さを始めた」


「……いいえ、幽霊のせいじゃありません。これは夢ではなく現実です」


 千晶は震える声を押し殺して冷静さを取り戻そうとする。諦めなければうまくいくと語った決意が、降り出した雨とともに流れ落ちていく。龍崎は未だ理解できない表情でつぶやいた。


「じゃあ……どうしてあの黒い車が、また後ろからくるの?」


 ヘッドライトで激しくパッシングを繰り返す車が、猛スピードで追いかけてきた。


十九


【4月16日 午後6時25分 心斎橋『山茶花さざんか』】


 『プロテア』の客に、花島常盛はなじまつねもりという男がいた。


 黒々とした直毛の髪に四角いあご、目鼻立ちのくっきりとした日焼け顔に余裕の漂う笑みを浮かべた48歳。ゴルフと魚釣りが趣味のスポーツマンで、朝からジムへ立ち寄ってから出勤するのが日課だと語っていた。職業はIT関連企業の社長で、アパレル系の販売サイトを運営して大きな収益を上げているという。ワインレッドのシャツにブランドのジャケットを羽織はおった大柄な姿、そして手首に巻いた太い金時計が印象に残っていた。


 花島はやり手の起業家らしく、他にも実店舗のセレクトショップや飲食店のオーナーもつとめていた。さまざまな業界ともつながりがあり、経営のノウハウを語った著作も何冊か出版していた。金は天下の回りものが座右ざゆうめいで、来店すれば接待のキャストだけでなく、周囲の女の子や黒服にまでチップをはずむ気前の良さがあった。それでいて成金のように偉ぶることもなく、物腰は柔らかで気遣きづかいのできる紳士でもあった。そんな男に千晶は指名を受けて好意を寄せられていた。


 『プロテア』で働き始めてから4年目の春。千晶は花島からの同伴出勤を受けて、店近くのビルに入る創作和食の店で会食していた。


「実はお店をめることにしたんです」


 花島の顔馴染かおなじみという店主が挨拶あいさつを済ませて帰ったところで、千晶は静かに話を始める。店内は和モダンのテイストで装飾そうしょくされた落ち着きのある空間で、席は周囲が気にならない半個室となっていた。


「花島さんには長くお付き合いいただいていますので、直接お話ししたいと思っていました」


唐突とうとつな話だな。ミライさんのほうから会いたいと連絡をくれたのはそれが理由か」


 花島は驚きつつも穏やかな口調で返す。店でも一番の上客じょうきゃくである彼とは肉体関係こそないが、こちらの事情を全て話して深く通じ合っていた。

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