第30話

「そうです。イアホンとマイクが一緒になっているんです。こっちのスマホを使って電話が掛けられます」


「へぇ、凄いねぇ。僕はまた、千晶さんがひとごとを言っているのかと思ったよ。僕もよく独り言をつぶやくからね。格好悪いけど、そのほうがものを覚えたり、自分の中で確認を取ったりする時に便利なんだよ。戸村くんって言ってなかった?」


「そうですね。戸村からの電話でした」


「戸村くんは知っているよ。顔はまずいが、いい男だね。彼がどうかしたの? なんの話だったの?」


「いえ、こちらの仕事のことです。確認することがあって電話を掛けてきました」


 千晶は話をぼやかして返答をける。矢田部は入居者を虐待ぎゃくたいする常習犯で、他の老人ホームでもトラブルを起こしてめている。彼女に対して抱いていた印象はどうやら正しかったようだ。しかし紀豊園でも同様に問題を起こしているかどうかは定かではない。介護タクシーのドライバーは普通、施設の玄関か受付のあるエントランスまでしか入らない。その奥にどのような日常があるのか、詳しい実情までは知るよしもなかった。


 そういえば龍崎があまり紀豊園へと帰りたがらないようにも感じている。施設での暮らしはさびしいと語り、こうして外にいるほうが頭や体の調子もいいようだ。例の黒い車の動向を心配して、千晶をほうって紀豊園へは帰れないとも話していた。もしかすると、それらは矢田部からの虐待を避けるための言い訳ではないだろうかと疑った。


「戸村が電話で、龍崎さんにもよろしくと言っていました」


「そう、よろしく……なんの話だっけ? 僕は何か頼まれていたかなぁ?」


「何も頼んでいないはずです。次の送迎にはまた戸村が龍崎さんをおうかがいすると思いますので、その時はよろしくお願いします、という意味だと思います」


「そうか。戸村くんは、うん、千晶さんは彼の妻と聞いたよ」


「ええ、まあ……でもそれ、どなたからお聞きになりました?」


「戸村くんが言っていたんだ。次の墓参りは妻の芹沢千晶さんが迎えに来るって。僕は冗談だと思った。そういう嘘はよくないと叱ってしまった」


「本人が言っていましたか……いえ、龍崎さんに嘘は言いませんよ」


「そう。嘘を言わない真面目な男だ。戸村くんは……そうだ、車だ。あの黒い車はなんだ? 戸村くんはなんと言っていた?」


「……いえ、その話はまだ、伝えていません」


「どうして? あんなに大変だったのに、相談しなくて良かったの?」


「会社に戻ってからでもいいと思いました。ラジオのニュースで衝突事故が起きたと言っていましたので、急いで報告する必要もなくなりました」


 千晶は取りつくろって説明する。そう、もう急いで報告する必要はない。実際の状況は違うが、今はうまく引き離して後ろにも付いてきていない。和歌山に帰省きせいしている戸村に話したところで心配させるだけだ。それなら紀豊園まで龍崎を送り届けてから、会社へ戻って上司に報告すべきだろう。


「千晶さん。それは、昔の職場が関係しているからかい?」


「え?」


 ふと、龍崎が鋭い質問を投げかけてくる。彼はダッシュボードに載せたカエルのマスコットを見つめたまま、口元だけを動かし話していた。


「千晶さんは、心斎橋の店で働いていたと言ったよね。それはプロ……今朝3時30分に火災が起きた飲食店だった。心斎橋は奈良と違って都会のにぎやかな街だ。普通のメシ屋も多いけど、特に商店街の東側は夜のいかがわしい店も多かったよねぇ」


「ご存じなんですね……」


「懐かしいねぇ。付き合いで何度か行ったことがあるんだよ。でも僕はあまり好きにはなれなかった。ああいう店も、そこで働いている女たちも……」


 龍崎は次第しだいに声をひそめつつ話す。恐らく嫌々いやいやながらも上司か誰かに連れ回されたのだろう。老人が精力的に働いていた数十年前にはそんな機会も多く、また断ることなど考えられない風潮ふうちょうもあったのだと思う。男だからこそ、心斎橋の飲食店と聞いて容易よういに想像が付いたのだ。


「千晶さんは、あの黒い車が、昔の職場と関係しているから、戸村くんに相談したくなかったんだねぇ」


「それは……ええ、そうかもしれません」


 千晶は少し迷ったが素直に認める。隠しているわけではない。夫の戸村には前の仕事のことも、これまでの人生もほとんど話している。彼は理解を示して全てを受け入れている。だから結婚に至った。


 それだけに、自分の過去には関わらせたくない思いがあった。もしあの黒い車が、かつてのまぶしくてむなしい夜の街から私をさがしてやってきたとしたら、戸村には知られず追い返してしまいたい。彼は今の私にとって大切なパートナーだ。共に未来だけを見ていたかった。


「千晶さん、誤解しないでねぇ」


 龍崎はマスコットに向かって話し続ける。


「僕はね、ああいう店で働く女は好きではなかっけど、千晶さんがふしだらな女とは思っていないよ。あなたは真面目で優しい人だ。だから働かざるを得ない境遇きょうぐうだった。僕はそういう人には同情するんだ。そして、そんな不憫ふびんな人を生み出す世の中を憎んでいるんだ」


「そうですね……」


「だから、このことは僕の胸の内にしまっておくよ。誰にも言わない。ああ、頭の運転を幽霊に取られたら、うっかり話してしまうかもしれない。でも、どうせ認知症の戯言たわごとだと思われるだけだ。誰も信じないよ、僕の話なんて。だから安心してほしい」


「……お気遣きづかいいただきありがとうございます、龍崎さん」


 千晶は正面を向いたまま小さく頭を下げる。実際のところ、千晶の前職がキャバクラのキャストであったことは、戸村をはじめ会社の同僚の一部も知っている。客先の老人ホームまでは広まっていないが、ばれたところで大した問題になるとも思っていなかった。


 しかし龍崎は夜の店で働く女に偏見へんけんを抱いており、千晶の過去も隠し通したい恥と思い込んでいるようだ。生真面目きまじめで、いささか頑固な彼にとってはそういう認識なのだろう。あるいは、かつての社会全体もそんな価値観だったのかもしれない。今のように嫁入り前の女子大学生がアルバイト感覚で働くなど考えられなかった。

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