第29話

幸里ゆきさと?……すいません。ちょっと電話に出ます」


 千晶は龍崎に断ったのちにスマートフォンをタップする。龍崎は聞こえなかったのか、すぐには意味が分からなかったのか無反応だった。


「はい、芹沢です」


『もしもし、お疲れさまです。戸村です』


 イアホンマイクから聞き慣れた野太い声が耳に届く。かしこまった口調なのは、仕事中のこちらに気をつかってのことだろう。千晶も結婚してからは戸村の姓に変わったが、職場では旧姓のままで勤務している。同じ姓のため社内や客先で混同されるのを避ける意図もあるが、仕事とプライベートを切り分けたい気持ちもあった。


 千晶は夫の声に安心感を抱いたが、同時に少し身構えた気持ちにもなった。この上さらに、新たな問題が起きたのではないかと恐れた。


『芹沢さん、今は運転中? 先に会社へ電話したら、まだ戻ってないって聞いたから』


「うん、まだ送迎中だよ。ちょっと遅れているの」


『ご苦労さん。何かあった?』


「こっちのこと? ……いや、特に何もないよ。順調、順調」


 千晶は普段通りの明るい声で返答する。車での送迎は渋滞や交通規制で予定の時刻から遅れることもままある。戸村も妻の異変に気づくことなく、ああそう、と簡素に返した。


「それで? 電話を掛けてきたのは戸村くんのほうだよ。そっちで何が起きた? 今、和歌山県だよね?」


『うん、まだ田辺市にいる。いや、こっちも問題ないんだけど……』


 戸村はそう断ってから少し間を開けた。屋外にいるらしく、山裾やますその地域特有の激しいセミの声がノイズとなってこちらまで響いていた。


『芹沢さんって、今日、紀豊園の仕事が入っていたよね? 僕の代わりに、龍崎善三さんの送迎で』


「そうだよ。今まさにその送迎に入っているから」


『あ、じゃあ龍崎さんも乗っているのか。様子はどう?』


「どうって、普通だと思うけど……何?」


『そう、それならいいんだけど。芹沢さん、紀豊園で介護士の矢田部さんには会った?』


「え? ああ……いや、今日はお会いしていないよ」


 千晶は不意の質問に戸惑いつつ返答する。例の会いたくなかった矢田部には、結局会わずに済んでいる。彼女の名前や紀豊園の施設名を声に出さなかったのは、隣の龍崎に話の内容を気づかれないようにするためだ。彼はじっと前を見つめながら、また高速道路の道路標識を読んだり、右車線を追い抜いていく車のナンバープレートを読んだりしていた。


「どうしたの? 会っておいたほうが良かった? 何か言付ことづけでもあったの?」


『いや、会わなくていいんだ。ただちょっと気になる話があってね』


 すると戸村は声を落として内緒話ないしょばなしをするような口調になった。


『……矢田部さん。入居中の高齢者によくない対応をしているって』


「よくない対応?」


虐待ぎゃくたいだよ。暴言や暴力をふるっているんじゃないかって』


「本当に?」


『そんな様子はないかと思って、今電話してみたんだ』


 千晶の脳裏のうりに矢田部の姿が思い浮かぶ。背が高くせており、常に不機嫌そうな表情をしている。ずっと何かに苛立いらだっている風で、千晶に暴言を吐き、共に働く同僚の陰口かげぐちを叩き、龍崎への扱いも乱暴に見えた。


『前に芹沢さんが言っていただろ。矢田部さんの態度がおかしいって。老人ホームの職員とは思えないって。僕には分からなかったけど、気になったから調べていたんだ。他の施設でもそれとなく聞いて回って。部外者だから深くは立ち入れなかったけど、その代わりみんな気楽に話してくれたよ』


「他の施設でも有名だったの?」


『どうも矢田部さんは常習犯らしい。警察が介入するような事件にはなっていないけど、今までにも何件かの老人ホームでトラブルを起こして辞めているみたいだ』


 戸村の溜息ためいきが聞こえる。やはり矢田部は問題ある介護士だった。これまで耳にしたことがなかったのは、施設側が評判を気にしてひた隠しにしてきたからだろう。


「そうなんだ……今の施設では知られているのかな?」


『紀豊園で? 知っていたらやとわないよ。それに矢田部さんが紀豊園でも虐待をしているとは限らないよ。反省して真面目に働いている可能性だってあるだろ? 芹沢さんが感じた印象だって決定的とは言えないし。だから、今日も何か気になることはなかったかと思ったけど、会っていなければ分からないよな』


「そういえば、紀豊園の人たちも今日は居場所を捜しているみたいだったよ。夜勤に入っていたけどいないって」


 千晶は紀豊園の若槻が他の職員と小声で会話をしていたのを思い出す。詳しく話は聞き出せなかったが、彼女も矢田部にはやや辟易へきえきとしている風に思えた。


『なんだそれ、行方不明ゆくえふめいか? どこかでサボっているってこと?』


「分からないけど……紀豊園へはこれから戻るから、私もちょっと聞いてみようか?」


『うーん、いや、それはやめておこう。変にぎ回っていたら僕らのほうが怪しまれる。また休み明けに会社のみんなとも相談しよう』


「そうだね。分かった」


『それじゃ、運転中にごめん。また夜に電話するよ』


「あ、幸里」


 千晶は電話を切ろうとする戸村を思わず呼び止める。今、こっちはそれどころではない。もっと明らかな緊急事態が発生している。あなたはどう思う? どうすればいいと思う? 遠く離れているが一緒に対策を考えてほしい。必死の訴えがのどの奥までせまっていた。


 しかし、それを声にすることはできなかった。


「ううん、やっぱりなんでもない。それじゃね」


『あ、ああ……気をつけて、千晶。龍崎さんにもよろしく』


 戸村は少し気になったようだが、何も聞かずに電話を切る。千晶はしばらく無言で唇を噛んでいた。


十八


【8月20日 午後6時5分 京奈和自動車道】


「千晶さん、それは電話? その耳の奴で電話が掛けられるの?」


 助手席の龍崎が興味深そうな目で見つめている。外の文字を読む作業はいつの間にか終わっていた。千晶は振り向かずに二、三度うなずいてこたえた。

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