第27話

橿原かしはら……御所ごせ……え、吉野よしのへ行くの?」


「そうですね。吉野のほうへ向かいます」


 吉野郡は奈良県の南部一帯を占める地域で、隣接する和歌山県の北部、三重県の南西部と合わせて広大な森林地帯を形成している。ここは『紀伊山地きいさんち霊場れいじょう参詣道さんけいどう』として世界遺産にも登録されており、真言密教の総本山となる高野山や、修験道の霊場とされる吉野・大峰おおみね熊野くまの三山さんざんもそこに含まれていた。


「道が新しいので龍崎さんが運転されていた頃はまだ開通していなかったのでしょうか。たしか、山岳地帯をけて西の和歌山市にまでつながっていたかと思います。いや、まだ全線開通していなかったかな? その辺は私もよく知りません」


「吉野……千晶さん、どうして、吉野へ行くの?」


 ふと、龍崎が低い声で尋ねてくる。違和感を覚えて横目でちらりとうかがうと、老人はやけに不安そうな眼差まなざしをこちらに向けていた。


「僕はこんな道知らないよ。なぜ吉野へ行くの? 僕をどこへ連れて行くの?」


「いえ、龍崎さん。吉野は……」


「まさか僕が言ったの? 吉野へ行こうって。ああ、それなら間違いだよ。千晶さん。行かなくてもいいんだ。それは僕の、頭の中の幽霊が勝手にしゃべっていたんだ」


「落ち着いてください、龍崎さん。吉野へは行きませんから」


 千晶は思考をもつれさせた龍崎をなだめる。


「道がつながっていると言っただけです。龍崎さんは何もおっしゃっていません。そんな遠出とおではしませんから、大丈夫です」


「吉野へは行かないんだね。じゃあ、この車はどこへ行くの?」


「どこへも行きません。龍崎さんをどこへも連れて行きません。この先で高速を下りて、紀豊園へ帰ります。安心してください」


 あせる気持ちをおさえてゆっくりと伝える。激しい運転をしたせいで感情が混乱し、認知症を再発させてしまったか。龍崎は千晶の言葉を噛み締めるように何度もうなずき、口をもごもごとさせていた。


「そう、紀豊園ね。この車は紀豊園へ帰るんだね……いや、黒い車だよ。あの車はどうなったの?」


「あの車はもういません。私たちを見失って別の道を走っているはずです」


「別の道を? じゃあまた帰ってくるよ。また後ろに付きまとわれるよ」


「大丈夫です。今度こそ確実に引き離しましたから。もう絶対に見つかりません」


「いや違う。千晶さん、それは甘い考えだよ。あの黒い車はそんなものじゃない。僕は知っているんだ。あの車からは恐ろしい執念しゅうねんを感じたよ。必ず追いかけてくる。今度こそ逃げられないよ」


「……それなら、やっぱり龍崎さんを紀豊園までお送りするのが先決ですね」


 千晶は否定せずにそう返す。そんなことは分かっている。絶対に見つからないなど言えるわけがない。西名阪自動車道を行く黒い車は、その先の天理インターチェンジで方向転換して道を戻り、さらに郡山下ツ道ジャンクションで京奈和自動車道に乗り換えればすぐにこの道へ辿たどり着く。たとえ土地勘とちかんがなかったとしても、高速道路を走り慣れているドライバーならすぐに察しが付くだろう。だからこそ、先に龍崎を紀豊園へ送り届けなければならなかった。


「龍崎さんを無事にお送りしたら、あとは私のほうで対応します。まだ追いかけてくるなら車を降りて話し合います。もう危ないことはしません」


「危ない。危ないよ、千晶さん。話の通じる相手じゃない。あなたは狙われている。僕のことなんて気にしないで。あなたを放って紀豊園へは帰れないよ」


「ありがとうございます……でも、大丈夫です。会社か警察にも相談して間に入ってもらいますから」


「駄目だよ。千晶さん、それは違う。あなたは人のことが分かっていない」


「人のこと?」


「人のこと、人の中身だよぉ。千晶さんはとても優しい人だから分からないんだ。会社や警察は常識の中でしか動けない。だが世の中には常識が通じない奴もたくさんいるんだ。あの黒い車にはそんな奴が乗っている。千晶さん、あなたの考えはね、本当に恐ろしい奴には通用しないんだよ」


 龍崎は不安げな顔で訴える。彼の発言は語彙ごいとぼしく、比喩ひゆも少なく決めつけも多い。だがそれだけに直接的で胸をざわつかせた。常識が通じない、本当に恐ろしい奴。たしかに高速道路でのせまりようは非常識というしかなかった。一歩間違えれば本人も無事では済まない、命知らずの運転だった。


「しかし、会って話し合うことも、警察に通報することも駄目だとおっしゃるなら、どうしようもありませんよ」


「どうしようもない。どうしようもないね。僕がもう少しまともだったらなんとかできたのに。頭も体もすっかり鈍くなってしまった。情けない。もう車も動かせない」


「龍崎さんがお元気でもどうにもなりませんよ。私には危ないとおっしゃったのに、ご自分ならなんとかできると思うなんて無茶です。それこそ私が放っておきません」


「でもあの車は、あの黒い車は、どうにかしないといけない」


「落ち着いてください、龍崎さん。大丈夫です。黒い車はもういません。お悩みいただかなくてもいいんですよ」


「悩まなくてもいい。黒い車はもうついてこない。しかし千晶さん、あれは……そう、衝突か。衝突したのか」


「え? 衝突?」


「衝突事故だ。車4台を巻き込む事故。今聞いたよ。そうか、やっぱり事故を起こしてしまったか」


「……あ、ラジオの話ですか?」


 千晶は龍崎の言う意味に気づいてラジオの音量を上げた。普通、人間の脳は関心を向けている物事に集中するため、それ以外の情報を遮断しゃだんするようにできている。目は視線を向けた箇所かしょ以外はぼやけて見逃し、耳は対象者以外の声は雑音となって聞き流してしまうのはそのせいだ。


 だが龍崎はその関心を向ける能力にも難があるらしく、目に入るものや耳に入るものを全て平等にとらえてしまう。千晶の声もラジオの声も、同じ外部からの声として反応してしまうようだ。

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