第26話

 いわゆる夜の店と呼ばれる店舗は日暮れとともに開かれるが、夜明けとともに閉められるわけではない。接客をともなう飲食店は法律により午前〇時には閉店する決まりがあり、特例地域においても午前1時までと定められていた。そのため従業員が店を出る午前2時頃ともなると歓楽街から人の気配はなくなる。深夜営業が許されている一般の飲食店やカラオケ店が建ち並ぶ表通りよりもひっそりと静まり返るものだった。


 街に人の姿がなくなり、夜が明けるにもまだ早い午前3時過ぎ、路上の端には一台の車がまっていた。


 車は車道と歩道の間にまたがり、右側に並ぶ店舗の前に停車している。近隣の店もすでに閉店しているので、迷惑と思う者は誰もいなかった。運転席の真横まよこに設けられた店舗のドアには改装中の貼り紙があり。リニューアルオープンの日時はちょうど本日の午後7時と書かれている。周辺には古いソファや木製のテーブルなどが積まれて、ドアの隙間からは明かりが漏れている。開店準備に追われているのか、この時刻でも店内で作業をしている者がいるようだ。


 その歓楽街では夏になると店の内外で噂になる怪談がある。深夜にどこからともなく黒い車がやってきては、店の女をさらって殺して回る。しかも車に人は乗っておらず、殺された女たちが幽霊となって仲間を求めて車で徘徊はいかいしている、という話だった。何年にも渡って語りがれているのは、店の女たちの現実的な不安に触れるものがあるのか。いつ誰が名付けたのか、『呪いの黒いラブワゴン』と呼ばれていた。


 停車している車はその怪談に登場するものとよく似ている。ただし付近にはもう誘拐ゆうかいする女は歩いておらず、運転席も無人ではなくドライバーが乗っていた。黒いTシャツの袖口そでぐちから手首にかけて、青黒いタトゥーを全面に入れている。右の手首には太い金色の腕時計を巻き、顔は長く伸ばした金髪に隠れてはっきりとは見えなかった。


 青タトゥーはシートに深く背を預けて頭を車の天井に向けている。右手には電子タバコを持っており、ときおり口に付けては白い息を吐いていた。左手はてのひらを上に向けて使い捨てライターを転がしている。喫煙具きつえんぐとして売られている物だが、バッテリーの電力で加熱する電子タバコには必要のないものだった。


 助手席の足下に濃い飴色あめいろのビール瓶が6本並べられている。底部は段ボール箱を細工したケースに入れて倒れないように固定されていた。どの瓶もラベルががされて、表面はすすけたように汚れている。中には半分ほど粘度のある液体が入っており、口部はTシャツを裂いて伸ばした布でせんがされていた。


 青タトゥーは電子タバコをドアポケットにしまうと、代わりにスマートフォンを取り出して電話機能を立ち上げる。電話番号の入力画面を表示させると、真横にある改装中の店舗の貼り紙に記載されている番号を入力した。通話が繋がると相手に向かって二言ふたこと三言みこと話してすぐに電話を切り、同じくドアポケットにしまう。それから右腕を伸ばして車のエンジンをスタートさせた。


 改装中の店舗のドアが開いて、一人の男が顔を出した。


 ドアの隙間から漏れた照明の光が青タトゥーの車まで一直線に伸びている。現れたのはオールバックの髪型に柄物のシャツとジーンズを身に着けた30歳くらいの男だった。休業中のためか夜の店の男にしてはラフな服装をしている。黒服と呼ぶにはけているので、マネージャーか店長クラスの男に見えた。


 男はいぶかしげな目で前の車を見て、店の周囲をうかがってから再び車のほうに顔を向ける。青タトゥーは運転席側の窓を下げて手招てまねきすると、助手席のビール瓶を一本取り出して右手に持った。口部の布は中の液体を吸って湿り、独特の臭気しゅうきを漂わせている。外で男が何かを言ったが、無視して左手のライターを握って小さな火を着けた。さらにその火を布の先に近づけると燃え移って炎になった。


 青タトゥーは運転席の窓から男に向かって、その火炎瓶かえんびんを投げつけた。


 不意ふいを突かれた男は防ぐ間もなく頭に瓶の直撃を受ける。その瞬間、瓶が砕け散ると全身が炎に包まれた。驚いた男が上げた声はやがて絶叫ぜっきょうへと変わり、炎を払った手にも火が燃え移る。地面に倒れて転がっても、炎は消えるどころかますます勢いを増して男の体を焼きがした。


 青タトゥーは続けて四本に火を着けて次々と店に向かって投げつける。その内の二本は開いたドアの隙間から店内に入り、別の二本は近くに積まれた廃品の山に燃え移った。暗い歓楽街は途端とたんまぶしい炎の光に照らされて、追い払われた夜の闇が黒煙となって空へと立ち昇る。店の白壁も鮮血のように赤く染まり、張り替えたばかりの真新しい店の看板も熱に溶かされた。


 看板には飾り文字で『Proteaプロテア』と書かれていた。


 青タトゥーは店が炎に包まれるのを見届けると、煙が入り込む前に窓を上げる。そしてシフトレバーを手前に引いて、車をゆっくりと発進させた。騒ぎに気付いて近くの店舗から人が顔を出したが、車は気にすることなくその横を悠然ゆうぜんと通り過ぎて街をあとにした。


 歩道では車の運手席にスマートフォンのカメラを向けている者がいる。青タトゥーはドアポケットから電子タバコを取り出しつつ、返事代わりに中指を立ててあおった。



十六


【8月20日 午後5時51分 京奈和けいなわ自動車道】


 黒い車から逃れて入った次の高速道路は、やけに見晴みはららしのいい直線の道となっていた。左右の遮音壁しゃおんへきがガラス張りになっており、また高架こうかが周辺の建物よりかなり高く設けられているせいでそう見えるようだ。先の西名阪にしめいはん自動車道をと比べても地面のアスファルトは美しく、白線もくっきりと記されている。交通量の少なさもあるだろうが、近年になって新しく開通した道路のようだ。


「これは一体……ここはどこだ? 僕はこんな道知らないよ」


 助手席から龍崎の戸惑とまどう声が聞こえる。


「ここは京奈和自動車道です。橿原かしはら御所ごせなどを通って和歌山まで続いているみたいです」


 千晶がうろ覚えの知識で回答する。

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