第25話

 千晶はエンジン音にまぎれるように小声でつぶやく。周囲の状況に興奮すると心拍数が上昇し、短い呼吸を繰り返すようになる。すると血の巡りが良くなるので体温も上がって体の不調が落ち着き、また脳が活性化されて意識も明瞭めいりょうになるのだろう。龍崎にとってはジェットコースターに乗せられている気分かもしれない。だが自分で運転するジェットコースターほど恐ろしいものはなかった。


「西名阪道、京奈和けいなわ道、郡山こおりやま下ツ道しもつみち……千晶さん、今見えた看板は、高速道路の分岐ぶんきだったのかな?」


「そうですね。もう少し先で道が分かれているはずです」


 この先には高速道路の分岐点となる郡山下ツ道ジャンクションがある。道なりに進めばそのまま西名阪自動車道が続き、左手の側道そくどうに入れば南進する京奈和自動車道とつながっていた。


「よし、じゃあそこで黒い車と離れられるねぇ。千晶さんは分かれ道のほうへ行くんだ」


「それは……たぶん、気づかれると思います」


 千晶は龍崎の提案をこばむ。道を変えるには分岐点の手前で左手の側道に入らなければならないが、このままでは後続の黒い車もそのまま付いてくるに違いない。先に一度引きがされたので警戒もしているだろう。もうウィンカーを出さずに曲がる程度ではだませなかった。


「大丈夫。僕に考えがあるんだ。運転させてくれる?」


「運転って……この状況でどうやって龍崎さんと席を代わるんですか?」


「ううん、僕は運転できないよ。そうじゃなくて、僕が指示を出すから千晶さんはその通りに運転してほしいんだ」


「そんなことは……」


「でもタイミングが凄く重要になるから、言われてすぐに動かないといけない。できる?」


 龍崎の説明に千晶は戸惑とまどう。要するに、何も考えず彼の意思通りに運転しろということらしい。そんなことできるの? しかしこのままでは黒い車からは逃れられない。


「千晶さん、僕を信じて。きっとうまくいくよ」


「……分かりました。ではお任せします。指示してください」


 千晶はうなずいて肩の力を抜く。龍崎がそこまで言うのなら、きっと自信があるのだろう。普通ならありえないことだが、今はその普通ではないことが求められている。相手の意表いひょうを突く必要があった。


「じゃあ少し速度を落として、黒い車をもっと近づけるんだ」


 視線の遠くに高速道路の分岐点が見えた時、龍崎の言う通りに千晶はアクセルペダルをゆるめた。龍崎は後ろを振り返って状況を確認している。サイドミラーで黒い車よりさらに後方の状況をうかがうが、二台が飛び抜けた速度を出しているせいで他に追従ついじゅうする車は見当たらない。黒い車だけが食らいつくように近づいていた。


「ウィンカーを出さずに右の車線へ移るよ。いいかい?」


「右車線に? なぜ……」


「いくよぉ……さん、はい!」


 龍崎の声に合わせて千晶はハンドルを切って右車線へ移る。考えている暇はない。


「はい! 急ブレーキ!」


 即座に聞こえた声を受けて、反射的にハンドルを強く握ってアクセルから足を放しブレーキをぐぐっと押し込んだ。急激な減速で車体が前のめりになり、上体がシートから浮き上がる。左腕を目一杯に伸ばして龍崎の上半身を押さえた。


 左車線を走る黒い車があっと言う間に走り抜ける。時速100キロで走行する車は1秒間で約28メートル進む。相手の目にはあおっていた前の車が一瞬にして消えたように映っただろう。


「よし、もっと踏んで。そのまま一気に左へ行くんだ」


 さらに千晶はハンドルを左に切って、車線を超えて側道に入った。


 つまり分岐点の手前で車を右車線に移すことで、黒い車に対して分かれ道へは入らない意思を示す。その後すぐに急ブレーキを踏んで黒い車を無理矢理追い抜かせる。それから左車線へ移動し、さらに側道へ入ってこの車だけを分かれ道のほうへと進入させる。それが龍崎の作戦だった。


「うまくいったねぇ、千晶さん」


「凄い……黒い車がいなくなった」


 千晶は興奮した面持おももちでつぶやく。はからずも前後を入れ替えられた黒い車は進路変更にも間に合わず、そのままジャンクションを超えて走っていった。


「びっくりしました。こんな方法があるなんて。龍崎さんのお陰です」


「違うよぉ、千晶さんが素直に言うことを聞いてくれたお陰だよ、ありがとうね」


 龍崎は謙遜けんそんするが、かなり車の運転に精通していないと思いつけない発想だ。車が好きというのも嘘ではないのだろう。ちらりを目を向けると、龍崎は持ち上げた手を後頭部にえてシートにもたれている。わざとらしく照れた振りをしているのかと思ったが、彼がそんなジェスチャーをするのも不自然に思えた。


「龍崎さん……頭をどうかされましたか?」


「ああ、今、ちょっとぶつけちゃったねぇ」


「ヘッドレストにですか? 平気ですか? 痛いですか?」


「なんともないよぉ。嫌だねぇ年寄りは、無理がかなくて」


 龍崎はそう言いつつも深く溜息ためいきをつく。自ら指示したとはいえ、高齢者にはあまりにも激しい運転だった。千晶は身をていしてでも危機を乗り越える方法を選んでくれた彼を思うと胸が熱くなった。


 道は大きくカーブを描いて、南向きの京奈和自動車道へ進入する。一般道へ下りる選択肢もあったが、道を選ぶ数秒間では、できるだけ遠くへ離れたい気持ちが優先した。アクセルを踏む足を浮かせて速度を緩める。脱力感に襲われたが運転を止めるわけにはいかない。乾燥した目を片方ずつ強く閉じて気をまぎらわせた。


十五


【■月■日 ■時■分 ■■■■■】


 夜の店が建ち並ぶ歓楽街かんらくがいに、暗い時刻が訪れる。


 店舗の看板は大半が消灯し、入口の明かりもわずかにぽつりぽつりとともっている。狭い通りにも人の姿はほとんどなく、たまに酔客すいきゃくが迷子のようにふらついているか、黒服が足早に通り過ぎる程度しかいなかった。付近を巡回するタクシーもなく、通りがかる車も店の前で人を乗せるとすぐに走り去っていく。角地かどちに建つコンビニエンスストアだけは変わらず開店しているが、そこにも客の姿はなかった。

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