第21話

「法隆寺へ行って、どうやって引き離せるんですか? 駐車場でめるのも危ないですよ」


「駐車場じゃない。法隆寺から入るんだよ。お金なら僕が用意するよ。ええと、今はいくらだっけ? 高速料金は」


「あ、高速道路ですか?」


 国道を左折すると寺院へ向かうが、そこを通り過ぎてすぐの交差点を右折して県道を南下すると、高速道路の西名阪にしめいはん自動車道へ入る法隆寺インターチェンジがある。龍崎はそこへ行けと言っているようだ。


「高速へ入れば引き離せるんでしょうか。いや……」


「千晶さん。千円札があれば足りるかなぁ。お金のことは気にしなくていいよ。僕が払う。今日は僕が墓参はかまいりのために呼んだんだから。僕が払うんだ」


「……いえ、ETCがあるので現金は必要ありません。龍崎さん、お財布はしまってください」


 千晶はそう返してタクシーメーターのスイッチを切る。もはや龍崎の送迎を気にしている場合ではない。あおり続ける黒い車から無事に逃げ切ることが先決となっていた。


「龍崎さんのご提案に乗ってみます。すいません、もう少しお付き合いください」


「僕のことなら心配しなくていいよ。今は頭もはっきりしている。ここ最近でも一番落ち着いている。不思議だねぇ。とっても調子がいいんだよ」


 龍崎は鼻息を荒くさせつつ話す。心身の緊張が脳への刺激となり意識を明瞭めいりょうにしているのか。確かに今は発声も力強く、会話も安定している。だが過度の興奮は極度の疲労を招くこともあるので油断できなかった。


 一車線の県道に入って南下を続けていると、やがて高速道路を案内する緑色の道路標識が目に入る。西名阪自動車道は名古屋から大阪までの東西を結ぶ道で、その間にある奈良県と三重県を横断していた。道の先には真横にびた高架こうかが見える。進入路は左側にあった。


「法隆寺のインターから高速に入ります……ちょっと揺れますのでお気をつけください」


 千晶は深く息を吐いてからルームミラーに目を向ける。後ろから煽ってくる車の弱点は、狙う車の行動が分からないことだ。高速道路ならほぼ一本道だが、一般道なら交差点や曲がり道も多い。先ほどの交差点で左折に気づかれたのは、左のウィンカーを点滅させて、ブレーキランプを点けて速度を充分に落としてから、ゆっくりとハンドルを切ったからだ。まるで自動車教習所でお手本を見せるかのように、しっかりと後続車に意思を示して曲がってしまったからだ。


 突然、千晶はハンドルを左に回してアクセルを踏んだ。


「うわっ」


 ギャッとタイヤが地面をこする音が響き、龍崎が声を上げる。急な動きに車内が振られて、千晶と龍崎と、ダッシュボードの上のカエルのマスコットが強く左右に揺れた。ウィンカーも点滅させず、ブレーキも踏まずに左折した。その先にあるのは高速道路の進入路だった。


「龍崎さん! 大丈夫ですか?」


「あ、ああ……うん。大丈夫、大丈夫だよ」


 龍崎はシートに座り直して何度もうなずく。後続車を引きがすには予想外の行動を取るしかなかった。素早く背後をうかがったが、あの黒い車の姿はない。ルームミラーにもサイドミラーにも映っていない。不意ふいを突いた左折に対応できず、そのまま一般道を流れて行ったのだろう。


 千晶はアクセルを強く踏み込んで高速道路入口の坂道を駆け上がる。ようやく煽り運転を振り切ることができた。


十二


【■月■日 ■時■分 ■■■■■】


 一直線に伸びた幹線道路の先には、まぶしく輝く街の明かりが見える。


 街は複数の路線が交わるターミナル駅を中心に、ショッピングセンターや飲食店などが入る商業施設が建ち並ぶエリアとなっている。周辺にもショップや飲食などの路面店ろめんてんのきを連ね、地下街も含めて立体的に造り込まれていた。地上では道路が複雑に交差し、その上では歩道橋が回廊かいろうのように渡されている。日中は大勢の人間にあふれ、日が暮れたあとも各所で照らされる賑やかな光が夏の夜景をいろどっていた。


 幹線道路はその街へとつながる大通りで、片側二車線の車道と歩道との間には、幅の狭い自転車道まで設けられている。昼間は街を往来おうらいする車で常に渋滞気味だが、夜になると交通量は極端に少なくなり、アスファルトの目立つ車道ではタクシーばかりが行き交っていた。薄暗い歩道にもほとんど人の姿はなく、自転車もごくたまにしか通り過ぎない。街の明かりが強いほど、街はずれの暗がりとさびしさが際立きわだっていた。


 間もなく日付が変わろうとする蒸し暑い深夜、その空いた自転車道に一台の車が停車していた。


 交差点に近い道路脇に停車する車は、ヘッドライトを消してエンジンも停止している。日中であれば迷惑駐車として取り締まりを受けるところだが、この時間帯はパトカーからも周辺地域の住人たちからも見逃されていた。沿道に並ぶビルには企業やクリニックや郵便局などが入居しているが、今はどこも閉まり照明も消えている。人間と建物がひしめき合う都市の片隅かたすみにありながら、この瞬間だけは人目ひとめに付く可能性は極めて低かった。


 車内には一人、金髪のドライバーが運転席に着いていた。


 ライオンのようにボリュームのある金髪を後ろに流して、襟足えりあしを軽く外側にねさせている。ハンドルに両肘りょうひじを置いてその上にひたいを乗せ、眠るように顔をせていた。その体勢もちょうど草むらに身を隠す猛獣の姿に似ている。誰の目にもまらない場所で、じっと身をひそめているようだった。


 交差点の信号が赤に変わると、まれに歩行者が横断歩道を渡っていく。大抵は一人で、恐らくは一日の仕事を終えて帰路きろく者たちだった。アイボリーのブラウスにネイビーのスカートを穿いた女が、残業に疲れた顔で足早に通り過ぎる。グレーのスーツを着た恰幅かっぷくの良い初老の男が、スマートフォンで電話をかけながら横切っていく。反対方向からは大作おおづくりの頭に赤いスカートを穿いた女がヒールのかかとを地面に突き立てながら立ち去っていく。誰も近くに停車する車に関心を向けないか、振り向いても運転席の金髪に気づくとすぐに目をらした。

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