第20話

 『プロテア』に通っていた根岡康樹とはあの日の夜から一度も会っていない。店長にストーカーの疑いがあると訴えてからは、店に顔を出すこともなくなった。ストーカーや暴力など悪質な行為を働く客に対して、店は出入り禁止の処置を取ることがある。誓約書せいやくしょを書かされるのか、罰金を払わされるのか、もっと恐ろしい目にわされるのか。具体的にどんな手段が用いられるかは知らないが、どれだけしつこい客でも二度と現れることはなかった。


「その人とはもう4年も会っていないんです。だから今さらこんなことには……」


「ああ、4年なんてあっと言う間に過ぎていくよぉ。僕にとってはついきのうの出来事できごとだ。あの頃はねぇ……まだ紀豊園にも入っていなかったなぁ。頭もはっきりしていてね、体も頑丈がんじょうでよく動けたんだよ」


「だけど、私がここにいることは知らないはずです。私が奈良にいることも、介護タクシーの仕事をしていることも伝えていません。本当に全く会っていないんです」


「そう……誰が?」


「ネオ……いえ、後ろの車を運転しているかもしれない人です」


「そう、後ろの奴だね。千晶さんを追いかけてくる嫌な奴だ。千晶さんがこうして奈良で頑張っていることも知らないんだな」


「そうです、だから……」


「だから調べてきたんだな。千晶さんの言う通り、しつこい奴だ」


「え……」


 千晶は龍崎の指摘に言葉を失う。そんなことがありえるだろうか。あの出来事のあと、一年ほどってから店を辞めて、奈良へ引っ越してこの仕事にいた。それまでの間、店も移籍していなければ桜川のマンションにも住み続けていた。危機は排除はいじょできたと思い込んでいた。


 しかし、根岡はどうしただろう。店から出入り禁止を受けたとはいえ、彼の存在がこの世から消失するわけではない。大阪から出て行く必要もなければ、心斎橋に近づけないこともない。単に店に来なくなっただけで、彼も、彼の思いも変わるはずがなかった。


「まさか、そんなことが……」


「4年もかけて千晶さんを追いかけてきたんだねぇ。それで車を使って怖がらせているのか。なんて奴だ。恨んでいるんだよ。千晶さんが悪いんじゃないよ。僕は知っている。あなたはとっても優しい人だ。それでも恨む奴がいるんだよ。悪くてなくても恨まれるんだよ」


 殺人鬼の映画を撮りたいと言っていた男。私をヒロインにして真の恐怖を追求したいと言っていた。そのため『プロテア』に通い詰めて誘ってきたのだろう。キャバクラのキャストにそんな頼み事をするなど間違っている。しかし真剣な彼をその気にさせたのは私だ。そして店長にストーカーの被害を訴えて、店への出入りを禁止にさせたのも私だった。


 目的地の霊園も遠く過ぎて、国道168号線を南下し続ける。黒い車は離れることなく真夏の影のように色濃く貼り付いていた。


 交差点でウィンカーを出して左折して、国道25号線を東に進む。背後からの重圧に耐えかねて、とっさに選んだ進路だった。勘違かんちがいかもしれない。このまま去ってくれるかもしれない。だが黒い車はその期待を踏み潰すかのようになおも追いかけてきた。


「離れてくれない……」


 ハンドルを握る手が再び汗でにじむのを感じる。後ろから煽っていたぶり、嘲笑あざわらうかのような車の動きが、恨みをつのらせたあの男の姿と重なって見えた。


「すいません、龍崎さん。私のせいで……」


「いいんだよぉ、千晶さん。あなたのせいじゃない。だから、うん、僕に任せて。僕がなんとかするから。ちょっと待って……」


 龍崎は右手の拳で額を叩く。脳に刺激を与えて解決法を思いつこうとしているのか。それとも認知症をおさえようとしているのか。いい方法とは思えない。しかしやめさせる余裕もなかった。


「龍崎さん、頭を叩かないで……車をめて直接会ったほうがいいんでしょうか?」


「車を停めて……。よし、いいとも。僕がしかってあげる。ふざけたことをするなと言ってやろう」


「それは駄目です! 龍崎さんにそんなことはさせられません。私が会うということです」


「千晶さんが? 千晶さんが会うの? いけない。それは危ないよぉ。この手のやからはね、いきなり殴りつけてくるんだから」


「そんな、昔に会っていた時はそこまで」


「昔からこんな奴に会っていたのか。千晶さんは昔からこんな奴に追いかけ回されていたのか。なんてことだ。かわいそうに」


「いえ、4年前はこんな人では……そうですね、今は普通じゃないかも」


「普通じゃないよ。まともじゃないよぉ。あなたは絶対に会ってはいけない。お願いだから、そんな怖いことはやめて」


「それでは、このまま警察へ行くのは……」


「そう、警察だ。警察が怠慢たいまんだからこんな不幸が繰り返されるんだ。警察は頼りにならないよ。奴らは何も解決してくれない。話をこじらせてね、悪い奴をもっと怒らせるだけなんだから」


「でも警察署に行けば保護してもらえるかもしれません」


「警察は役に立たないよ。警察は車一台止められないんだ。機動隊きどうたいも集まらなければたてにもならない。いつも全て終わってから偉そうに出てくる。事故が起きて、人が死んで、取り返しが付かなくなるまで放置するんだ。千晶さん、早まってはいけないよぉ。警察はね、誰も守ってくれないんだ」


 龍崎は強く首を振って否定する。言葉の中に長年の経験がうかがえる。きっと彼もこれまでにさまざまなトラブルを体験してきたのだろう。たしかに警察署へ行って駐車場に車をめたら、逆上されてそのまま激しく追突されるかもしれない。根岡は4年間も私を恨み、ようやく居場所と車を見つけて襲いかかってきた。警察を恐れて逃げるくらいならこんな危険な嫌がらせを続けるとは思えなかった。


「千晶さん、離れるんだ。近づいているから狙われるんだよ。立ち向かおうなんて思っちゃいけない。離れて隠れていればいいんだ」


「立ち向かうなんて思っていません。でも離れてくれないんです」


「ああ、法隆寺ほうりゅうじだ。ここは法隆寺じゃないか? 僕は見覚えがあるよ。古いことはよく覚えているんだ。ここは法隆寺の道だ」


「え? そ、そうですね」


 走行している国道は有名な寺院と接している。このまま直進を続けるとやがて左手に交差する参道さんどうが現れるはずだった。


「法隆寺ならもうすぐ見えてくると思いますけど、それが何か……」


「じゃあ千晶さん、法隆寺へ行こう。そこで引き離すんだ」

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