第22話

 やがて金髪はおもむろに顔を上げると、右手首に巻いた金色の腕時計を向けて時刻を確認する。そしてハンドルから体を起こしてシートに座り直すと、腕を伸ばしてエンジンをスタートさせた。目を覚ました車は低いうなり声を上げて体を震わせる。ゆっくりと金髪をき上げて道路の先にある街のほうを向いた。


 四車線をへだてた右側の歩道で、一人の男が交差点を目指して歩いてくるのが見えた。


 男はうつむき加減でスマートフォンの画面を見ながら歩道の端を歩いている。その様子からは地味な若者を感じさせるが、長髪ながらもひたいが後退し始めた髪と、せている割には膨らんだ腹回りから三十代後半の雰囲気を漂わせていた。終電まぎわの時刻に駅前から現れたのも遊びの用事ではなく、仕事帰りか夜の出勤を想像させる。服装はそでまくった黒いタートルネックとジーンズを身に着けて、ストラップの長いショルダーバッグをげていた。


 金髪はそれを確認すると、車を発進させて横断歩道の手前で停車する。信号は青色だったが後続車の姿はなく、停まっていても不自然に思う者は誰もいなかった。横断歩道の右側では先ほどの男が信号待ちで立ち止まっている。やはりスマートフォンを見つめたままで、耳にも白いイアホンをしていた。


 車道側の信号が黄色をて赤色に変わる。それを合図あいずに金髪はブレーキを左足で踏み直しつつ、同時に右足でアクセルをゆっくりと踏み始めた。エンジンの回転数が徐々に上がり騒音が大きくなっていく。ちょうどF1カーがスタート前に空吹からぶかしをしているような状況だった。


 横断歩道の信号が青色に変わると、立ち止まっていた男が右側から車道を横切り始める。渡る前にちらりと左右をうかがったが、車の姿がないと分かると再びスマートフォンの画面に戻った。四車線の最奥さいおくまる金髪の車まで目を向けることはない。また目を向けても車は停止線よりさらに手前で停まっていた。


 金髪はエンジンを高速回転させたまま、太い腕でハンドルを握り締めて待ち受ける。車外では異様な音が鳴り響いていたが、イアホンを着けた男の耳には届いていなかった。にわかに顔を上げても正面の歩道を確認しただけで、すぐ隣の車はもう眼中がんちゅうにない。そして今、なんの警戒心も抱かないままに車のちょうど真正面に差しかかった。


 金髪はアクセルを踏み込んだまま、ブレーキから左足を離した。


 一瞬にして、車は爆発的な加速力で男の体をね飛ばす。振り向く間すらも与えられなかった。膝の辺りから上半身にかけて強烈な衝撃を受けた男は、放物線を描いて宙を飛び、先の車道に墜落ついらくした上に激しく地面を転がった。


 金髪は男をねた直後にアクセルを離して減速していた。そして男の体が、右や左にれることなく真正面に落ちたのを確認すると、再びアクセルを強く踏んで車を加速させた。ハンドルを微調整して自分の目線と車道に横たわる男とを一直線に結ぶ。そこから少しだけ左に寄ることで、自分ではなく右の前輪タイヤで照準しょうじゅんを合わせた。


 波打つように車体が揺れて、前輪と後輪の両方が男の体を踏み潰す。


 金髪は薄い唇を開くと、欠けの目立つ歯をいて笑みを浮かべた。


 車は停まることもなく、そのまま街へ向かって走り去った。



十三


【8月20日 午後5時30分 西名阪自動車道】


 法隆寺インターチェンジから西名阪自動車道へ入り、東に向かって走行する。景色は市街地から一変して、左側に高い遮音壁しゃおんへき、右側に対向車線が見える片側二車線の高速道路になった。視界に入る車は商用車やトラックが目立つようになり、渋滞もなく比較的スムーズに流れている。遮音壁が途切れると青々とした夏の田畑が広がっていた。


「なんとか逃げられました。ありがとうございます、龍崎さんのアイデアのお陰です」


 千晶は溜息をついて大きく肩を下げる。相当な緊張をいられていたことに今さらながら気がついた。一休みしたいところだが高速道路に入ってしまったので停まるわけにもいかない。ひとまずはこのまま走り続けるしかなかった。


「ああ、この道も知っているねぇ。車で走った覚えがあるよ」


 龍崎は首を回して周囲の様子を眺めている。


「たしか三重へ行く道だ。天理、山添やまぞえ村、伊賀いがの山を抜けて、せきで分かれる。北へ行けば亀山、四日市よっかいち桑名くわなを通って名古屋。南へ行けば松阪まつさかとお伊勢さんだ」


「お詳しいんですね。私はそこまで知りませんが、そんな感じだと思います」


「真夏の暑い日だったよ。クーラーの効きが悪くてねぇ、窓を一杯に開けて走っていたんだ。爽快そうかいだったねぇ、気持ち良かったよ。凄いスピードで飛ばして、キンコン、キンコンってチャイムも鳴りっぱなしだったよ」


「ご旅行だったんでしょうか。チャイムってなんですか?」


「時速100キロを超えると鳴るんだよ。車が警告するんだ。おかしいな。千晶さん、料金所は通り過ぎたかい? お金は払わなくて良かったのかな? あいつらはよく見ているよ。車のナンバーを覚えるんだ。あとで取り立てに来る。どうしよう、困ったことになっちゃった」


「大丈夫です。今は自動で利用料金が引き落とせるようになっているんです。料金所でお金を出さなくてもちゃんと支払っていますから、大丈夫です」


 千晶は言葉の前後に大丈夫と強調して安心させる。真面目で心配性な老人の性格がうかがえた。道路の景色から自分の居場所を推測できるのは、かつて頻繁ひんぱんに車を運転していた証拠だろう。カーナビが存在しなかった時代のドライバーは外の景色をより詳しく記憶しているのかもしれない。また古い記憶は認知症の影響を受けにくいものだった。


「龍崎さん、こんなことになって本当に申し訳ございませんでした。今日はこのまま紀豊園へお送りします」


「うん、紀豊園ね……あれ、紀豊園へ帰るの?」


「次の郡山こおりやまで下りて一般道へ戻ります。それほど時間はかからないと思います」

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