第19話

「なぜ? 大丈夫だよ。君はそのままでいいんだ。演技なんて必要ない。俺はありのままの君を撮りたいんだ」


「でもほらぁ、お店もあるし。店長に怒られるかも」


「キャバ嬢なんて兼業けんぎょうしたって怒られないだろ。休日があるじゃないか。店に出勤するのも夜だろ? 昼間の空き時間にちょっと手伝うくらいでもいいからさ」


「ダーメ、いい加減に諦めてね、ネオ」


「ギャラも支払うよ。そんなに多くは出せないけど」


「そんなお金があったらお店で使ってほしいな」


「一度やってみて、やっぱり無理だと思ったらやめてもいい。心配しなくても大丈夫。俺は車も持っているんだ。桜川さくらがわまで迎えに行くよ」


「え……」


 千晶はびくりと体を震わせる。誤魔化ごまかすために見せた笑顔の裏で、真顔の本心がこおりついた。


 今、根岡はなんと言った? 聞き間違えるはずがなかった。


「ネオ……なんで知っているの?」


「え? 何?」


「今、言ったよね。私が住んでいるところ。どうして知っているの?」


「ああ、それはだって……君が前に教えてくれたから」


「私が教えた?」


「そうそう。いつだったかなぁ。どこに住んでいるの? みたいな話になって。俺が阿倍野あべのだって言ったら、ミライさんが私は桜川って……あ、忘れてる? 酔ってたんじゃない?」


 根岡は視線を右上に向けつつ気楽そうに答える。ありえない。キャストが親しくもない客に自宅を明かすはずがない。ましてや自分は、どれだけ酔おうと絶対にプライベートを見せない信念を持っていた。桜川は難波の西側にある地域で、ここ心斎橋からもそう遠くは離れていない。だがそれでも当て推量ずいりょうげられる地名ではない。当然、他のキャストや黒服が彼に教えるはずもなかった。


 ストーカー、という言葉が頭をよぎる。可能性はひとつしかない。根岡は店から帰路きろく自分のあとをこっそりつけて住所を突き止めたのだ。


「そっかぁ……うん、話したかもしれないね」


「そうそう。まあ、それくらい俺は本気で君をスカウトしているんだ。だから君がその気になってくれるならすぐにでも撮影の準備を……」


 視界の端で、こちらに向かって立つ黒服の姿をとらえる。もう3年も勤務しているとその意図するところも自然と分かった。


「あ、ネオネオ。そろそろ時間みたい。あっと言う間だねぇ。今日も来てくれてありがとう。お話、とっても楽しかったよ」


「ああ、そう……」


 根岡は黒服に気づくと我に返って少し背筋を伸ばす。千晶は手を伸ばして彼の手にそっと重ねた。


「ねぇ、どうする、延長する? でも私、ちょっと先約が入ってて一緒にいられないんだけど、それでもいいかな?」


 千晶は上目遣うわめづかいで根岡を見つめつつ、瞬間的に黒服にも目配めくばせする。黒服も心得こころえているので表情ひとつ変えずに黙ってひかええていた。根岡は迷う態度を見せたが、結局千晶の手を握って首を振った。


「いや、ミライさんがいないなら、今日はもういい。それで映画の件は……」


「分かった、考えとく。でも今すぐってのはちょっと困るんだけど……」


「ほ、本当に? もちろん、急がなくていいんだ。無理は言わない。一晩、二晩、ゆっくり考えてよ」


「ありがと、ネオ。また映画のお話聞かせてねぇ」


 千晶は会計を済ませた根岡に向かって両手を振ると、黒服をともなって満面の笑みで見送る。彼は名残なごりしそうな表情を見せていたが、最後は満足げにうなずいて店から去って行った。金髪に黒い服装の男は歓楽街の雑踏ざっとうに紛れてすぐに見分けが付かなくなる。それでも目をらさずその場に留まっていた。


 ふいに背後から吹きつけた寒波かんぱに体の芯を冷やされる。千晶は顔を強張こわばらせると、黒服とともに温かな店に引き返した。


「ねぇ……店長、事務所にいる?」


 そして小声で尋ねると、喧噪けんそうに包まれたホールには戻らず店の裏へ回る。体の震えが止まらないのは寒さだけではない。乗りの悪い得体の知れない男などいくらでもいる。ホラーが好きでもケチでも構わない。だがストーカー行為は絶対に許されない。すぐにでも対応しなければならない緊急事態だった。


十一


【8月20日 午後5時21分 国道168号線】


 ハンドルを握る両手が小刻こきざみに震えている。


 緊張のせいか、不安のせいか、片手を離すとてのひらがじっとりと湿っている。さりげなくズボンの太腿ふとももぬぐってから、軽く握り開きを繰り返して再びハンドルに戻す。指先に血流の温かさを感じて、冷えきっていたことに気づいた。


 車を運転している時、脳の何割かはその操作に使われている。そのため単に椅子に座っている時よりも複雑な思考はできないが、普段よりも感情の変化には冷静に対応できるようだ。どれだけ悲しみや怒りを抱いても、事故を起こしてはならないという強い意識が平常心へいじょうしんを取り戻そうとしてくれる。今、不安と恐怖に感情が爆発しないのもその心理によるものだろう。


「根岡康樹……」


 ルームミラーに映る黒い車に向かってそうつぶやく。思い浮かんだのは、かつて出会ったあの男。胡散臭うさんくさい金髪に血色の悪い肌、目を見開いて笑みを浮かべた不気味な顔だった。


「なんでネオが、でも……」


「え、なんだって? 誰だって?」


 隣の龍崎が大声を上げて振り向く。


「やっぱり紀豊園の人だったの? なぜ僕を追いかけるの? 僕が何をしたっていうの?」


「龍崎さんのお知り合いではないと思います。恐らく私の……友達かも」


「友達? はぁ、友達なのにこんな嫌がらせをするの?」


「友達だったんですがストーカー、しつこく付きまとわれるようなことがあったので」


「付きまとわれる? どういうこと? 男なの?」


「そうですね、男性でした」


「それはつまり……ああ、そういうことか。分かった、軟弱なんじゃくな男だな。だから千晶さんをこんな目にわせているんだね」


「い、いえ、待ってください。でもそれは……考えられないんです」


 千晶は困惑しつつ否定する。自ら言っておきながら、即座に理解を示す龍崎には同意できなかった。

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