第16話

「僕は認知症になって、もう外では生活ができなくなって、みんな捨てたんだよ。過去を捨てて、新しい自分に生まれ変わったんだ。そうするしかなかったんだもの。それなのに、なぜ……」


 耳に届く龍崎の声に、千晶は奇妙な共感を覚える。過去を捨てて、新しい自分に生まれ変わった。しかし人生の黄昏時たそがれどきを迎えて、いさぎよく舞台を下りた彼とは違い、自分は大阪から30キロほどしか離れていない奈良に転居して、夜の仕事から昼の仕事に転職したに過ぎない。捨てたと思っているのは自分だけで、今も過去とは地続きだった。


 大阪から来た『なにわ』ナンバーの車が、追いかけて来た過去のように見えた。




【12月23日 午後9時58分 心斎橋『プロテア』】


 『プロテア』の客に、根岡康樹ねおかやすきという男がいた。


 身長はヒールをいた千晶とあまり変わらず、針金を曲げたような細身の体形をしている。顔は眉が隠れるほど伸ばした金髪に目尻の下がった物憂ものうげな眼差まなざしを向けていた。高い鼻とけたほおが陰影を作り、不健康そうな土気色つちけいろの肌をしている。服装はいつも黒いタートルネックとジーンズを身に付けて、ビンテージものらしい汚れたスニーカーを履いていた。


 店に来る客はさまざまだが、大きく分けるといくつかのパターンがある。ひとつはスーツを着た会社帰りのサラリーマンたち。これは接待で来る時もあれば仲間同士で来る時もある。若者から中年まで年齢の幅は広いが、ノリが良くて賑やかで、理性を保って金払いもいい良客りょうきゃくだ。


 もうひとつは同じ水商売風の派手な男たち。金髪、赤髪と頭の色はさまざまで、ブランド物の黒スーツを着た若い美男子が多い。女への気遣きづかいがうまく羽振はぶりも良いが、所詮しょせんは遊び慣れた同業者のかし合いになる場合も多い。逆にまって身を崩すキャストもいるので注意が必要だった。


 客の中で一番大切にしたいのは、やはり裕福な中年あるいは老齢の男だ。そういう者は大抵ミナミのキャバクラではなくキタの高級クラブに通っているが、たまに酔狂すいきょうな紳士が立ち寄って通い詰めることもある。言葉通り桁違けたちがいの金持ちなので、気に入ればいくらでも店に金を落としてくれる。キャストもそういう客を捕まえておけば店でも大きな顔ができ、店長からあんせられるノルマに悩むこともなくなる。とはいえそんな上客じょうきゃくは極めてまれにしか遭遇そうぐうできないので、やはり普段から仮初かりそめの恋愛ごっこを楽しみに来るサラリーマンの客を大切にするのは基本だった。


 そして、客の中で一番扱いにくいのが、たいてい地味な服を着て一人でやって来る、職業も年齢も不明瞭ふめいりょう得体えたいの知れない男たちだ。自己主張が強いせいか話が噛み合わず、尊大そんだいになったり卑屈になったりと浮き沈みが激しい。小さな声でぼそぼそと話しているかと思うと、よく分からない箇所かしょで笑い出して困惑させられる。内気うちきそうな顔でキャストに接していたかと思うと、急に強引な態度でお触りを求めてくる。そして何より金払いが悪い男たちだった。


 根岡康樹は、その扱いにくいタイプの客だった。初来店の際に接客した千晶、宵宮よいみやミライを気に入って通うようになってくれた。ただ、出勤前に別料金で会う同伴どうはん出勤は断り、店内でもあまり酒も注文せずに長く居座ろうとするのでありがたい客とは言えなかった。芸術系の学校に通う線の細い青年のような容姿をしているが、年齢を尋ねるともったいぶった末に32歳と答えた。そして職業は映画監督を自称していた。


 『プロテア』で働き始めてから3年目の冬。その日の千晶はクリスマス前の活気ある店内で、ふらりとやって来た根岡の隣に座って接客していた。


「ミライさん、俺はね、恐怖というものを追及したいんだよ」


 2杯目となる焼酎しょうちゅうの水割りにようやく口を付けたところで、根岡は低い声でそう話し始めた。隣の席ではグループ客がシャンパン・タワーを注文して3人のキャストたちと盛り上がっていたが、ここは隔絶かくぜつされた孤島のように静かだ。千晶は興味深げに目を開いて彼の横顔を見つめた。


「それは、映画でってこと? ネオ」


「そう、俺なら真の恐怖を映像で表現できると思うんだ」


 根岡はそう返して千晶に真剣な眼差まなざしを向ける。ネオというのは名前の呼びかたを尋ねた際に彼のほうからそう求められた。サングラスを掛けて仮想空間をしそう、と言ったら、ニヤリと笑みを浮かべて上機嫌になった。そんなに喜ぶとは思わなかった。


「ミライさんは、本当に怖い映画って、どんなものだと思う?」


「えー、なんだろう。そんなの考えたこともなかったけど。だいたい私、怖い映画自体が苦手だから、あんまり分かんないかも」


「それはいい。怖い映画が苦手な人ほど、怖いことを体感できている証拠だ。俺なんて、もうホラーに耐性ができてしまっているだろ? だからどんな映画を観ても怖さが感じられない。ストーリー展開や撮影技術のほうを考えてしまうから、本当に楽しめているとは言えないんだ」


「ふぅん、それはそれで不幸だね。もっと明るい映画は撮らないの? 私、ネオには恋愛映画とか撮ってほしいな」


「恋愛? 恋愛映画だって……もちろん撮れるよ、だけど俺の思考はホラーに向いているんだ」


 根岡は視線を少しらして答える。千晶は言ってみたものの、彼が恋愛映画を撮る姿は想像できなかった。そもそも映画監督を自称している癖に、今までどんな映画を撮ったのか、どんな映画にかかわったのか一切教えてくれない。インターネットのウィキペディアにも名前は登録されておらず、ユーチューブに短編動画などを投稿している風でもなかった。


 しかし、それを問いただしたところでいいことはないだろうから、千晶も彼を立派な映画監督のつもりで付き合っている。客の中には嘘か真か、年商何億円の会社を経営していると自慢する者や、しゃに構えて芸能人の誰それとは友達だからと語る者もいる。キャバクラは、男がどうだどうだと大きく見せて、女が凄い凄いとめ立てて楽しむ場だと思っている。根岡が映画監督だと名乗るなら、彼は店内ではアカデミー賞監督だった。

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