第15話

 龍崎は体を戻して座り直す。煽り運転と呼ばれるようになったのはいつからだろう。よく使われるようになったのは最近のことで、以前は大して話題にならなかったように思う。もちろん龍崎が車を運転していた時代にもこんな迷惑行為はあったはずだ。そう、当時はそのまま迷惑運転や危険運転と呼ばれていたのかもしれない。


「あの黒い車にずっと煽られていて、緊張して気がいていたんです」


「そうなんだ。それは知らなかったよ。煽り運転……うん、大丈夫だよ。千晶さんは怖がらなくていい。何も怖くない。心配しなくていいんだよ」


 龍崎はまるで自分にも言い聞かせるようにうなずきながら話す。


「あんな車は放っておけばいいんだ。僕も経験があるよ。高速道路を走っていてね。凄く速い車に追いかけられたんだ。でも僕は気にしなかったよ。僕はそんな人の相手をしている暇はなかったからね。そうしたら通り過ぎて行ったんだ。放っておけばどこかへ行くんだよ」


「私もそう思っていたんですけど。でもあの車、紀豊園を出たあとすぐに現れて、ずっと付いてくるんです」


「紀豊園から? あれは紀豊園の車なの? 僕を迎えに来たの?」


「それはないと思います。あんな車、見たことありません。それに、私や龍崎さんに何か用があるなら電話をかけてくるはずですから」


 スマートフォンはハンドルの右手側に取り付けたホルダーに収まっており、指で触れて画面を表示させても電話の不在着信などは記録されていない。右耳にはハンズフリーのイアホンマイクを装着しているので、もし着信があれば音でも確認できるはずだった。


「私も、ちょっとした嫌がらせなら気にしないんですが、あんまりしつこいので気持ち悪くて……」


「紀豊園の車じゃないんだ。それじゃどこの誰?」


「どこの誰かは分かりません。たぶん知らない人です」


「知らない人が、どうして追いかけて来るの? 何の目的があってこんなことをするの?」


「それが煽り運転だと思います」


 ちらりと横目で龍崎をうかがうと、彼は眉を寄せて納得できないような表情をしている。紀豊園の名前を出したせいで、後ろの車は知り合いに違いないという思考に結び付いてしまったようだ。不安を吐露とろする相手として龍崎の存在は頼もしい。しかし世代の違いもあいまって会話を円滑えんかつに進めるのは難しかった。


「きっと怖がらせるのが目的なんです。私を脅して楽しんでいるんです」


「千晶さんを怖がらせるために追いかけて来るのか。信じられない。まるで車のおけだ」


「そう……ですね。本当にそうなら怖いですけど」


 車のお化け、呪いの黒いラブワゴン。大きな車体と、黒い車色と、不気味な煽り運転が、頭の奥底に埋もれていた記憶を引きずり出した。夜な夜な水商売の女をさらって犯し、バラバラにして淀川に捨てていた車。その車は殺された女たちの幽霊に乗っ取られて、犯人のドライバーを死に追いやってからも無人のまま街を走り続けている……。


「でもまだお昼ですから、お化けが出るのはちょっと早いですね。やっぱり運転しているのは人間だと思います」


「人間……そう、人間だ。お化けじゃないよ。お化けと言ったのはね、僕の嘘だ」


「分かっています。嘘ではなくジョークですね」


 千晶は緊張に顔を引きつらせたまま、口元だけで笑みを作る。当然だ。さすがにお化けを信じるほど純粋ではない。数年前に星空キラから聞いた話も、結局そのあとどこかで話題に上がることもなく、ニュースで報じられることもなかった。もし本当に何人もの女が行方不明になっていたら、世間はもっと大騒ぎしているはずだ。だからあれは、キラが聞いたという客か誰かが、女の子を怖がらせて遊ぶためだけに作った怪談だったのだろう。


「どこかの危ない人に目を付けられたんでしょうか。本当に迷惑です」


「危ない人……そう、危ない人はどこにでもいるよ。何もしなくても目を付けられるんだ。怖いよねぇ。千晶さんがいい人でもね、危ない奴はやって来る。それがこの世の中なんだ」


「そうですね。私もそんなにいい人ではないですけど」


「どこの誰だい? どこの男がこんな目にわせているんだい? 千晶さんはもう誰か分かっているの?」


「いえ、だからそれは……」


 千晶はそこでふと言葉を止める。突然現れては執拗しつように煽り運転を繰り返す、得体えたいの知れない黒い車。何が気にさわったのか、虫の居所が悪かったのか、視界に入った車に嫌がらせを行う、たちの悪いドライバー。たまたま前を走っていただけで、縁も所縁ゆかりもない者から仕掛けられた迷惑行為。


 本当に知らない人なの?


「誰だろう。僕は誰かにうらまれているのかな? でも僕は、もう何年も紀豊園に入っているよ。ずっと誰にも会っていないよ。誰も僕のことなど覚えていないはずなのに」


 龍崎は自問自答じもんじとうを繰り返す。龍崎ではない。老人ホームに入居する彼を恨む者などいるとは思えず、仮にいたとしても今ここに彼が同乗していることを知る者などほとんどいない。まさか紀豊園の人間がこんな無意味なことをしないだろう。


 だから、いるとすれば私のほうだ。


 何者かの見えない視線が、シート越しの背中に感じる。龍崎とは違い、今日この車に乗っていることは多くの人間に知られていた。白い車体の側面には『福祉輸送車両(限定)きたまちケアタクシー』と大きくプリントされているから、他の車に紛れて見失うことは決してない。そもそも一目で福祉関係と分かる車、前後に車椅子マークのステッカーを貼った車を煽る者などいるの? これほど長距離を付け回す者などいるの? 紀豊園で龍崎を迎える前にも、黒い車から煽り運転を受けていた。まさかあれも、今と同じ車だったの?


 目に付いたからではなく、初めから私を狙ってやってきたの?


 左目だけでルームミラーを窺うと、相変わらず間近に迫った黒い車が見える。ただ、ほんの少しだけ距離が空いて、車の全体像が映っていた。背は高いが車体の底と地面との高さ、車高しゃこうはかなり下がっている。まるで腰を落として威嚇いかくする肉食獣のように。フロントガラスは油を塗ったかのようにぎらついて、ドライバーの姿は全く見えない。


 ナンバープレートの上段には、平仮名で『なにわ』の三文字が記されていた。

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