第14話



【8月20日 午後4時55分 国道168号線】


 しまった。と気づいた時には、もう手遅れだった。


 竜田川たつたがわ沿いを走る国道168号線の途中、青信号につられて右折すべき交差点を直進してしまった。カーナビによると目的地の霊園は、右手に見える森に隠れた高台にあると表示されている。地図を見る限り自動車が通行できる道路は、今通り過ぎた一本しか存在しなかった。


 どうして道を誤ってしまったのか。初めて向かう目的地だったから? カーナビの指示を聞き逃したから? 路上に案内看板あんないかんばんがなかったから? 右折した先の道が予想外に細く目立たなかったから? 思い出したくない過去の記憶が掘り返されてしまったから?


 違う。黒い車がまだ後ろからあおり続けてくるからだ。


「千晶さん?」


 龍崎が頭を大きく左右に振りながら声を上げる。


「この道は、これで合っていたっけ? 僕はなんとなく、見覚えがない気がするんだけど。それとも僕の記憶違いかなぁ?」


「……はい、そうですね。今ちょっと道を間違えて、龍崎さんの知らない場所へ来ちゃいました」


 千晶は冷静な口調で返答する。認知症をわずらったからといって、何もかも忘れたり分からなくなったりするわけではない。時には以前と変わらない記憶力を保持して、鋭い洞察力どうさつりょくを発揮することも多い。ただ、その脳の活動状況が不安定なために、本人も周囲の人間も戸惑い苦しめられるものだった。


「道は分かっていると言ったのに、すいません。すぐに引き返しますのでご安心ください」


「そ、そう……うん、いや、それならいいんだ……」


 龍崎は前を向いたまま、自分に言い聞かせるように何度もうなずく。イレギュラーな事態は脳に混乱を与えて不安を抱かせるので避けなければならない。しかし、それならなおのこと、後ろの黒い車を何とかしなければならない。このまま目的地の霊園まで付いてこられてはたまらなかった。


 国道は途中で二車線から一車線へとせばまって、より逃げにくい状況になっている。背後の威圧感いあつかんはさらに増して、無意識の内にアクセルを深く踏まされていた。先ほど右折するはずの交差点を突き抜けてしまったのもこのせいだ。エンジンの回転数に合わせて心音が早まるのを感じた。


 あんな話、思い出さなきゃ良かった。


 黒い車はほとんど離れることもなく、ぴったりとこの車に付き続けている。ここからではエンジン音も聞こえず、こちらに合わせて正確に加減速かげんそくを調整しているので、まるで音もなくゆっくりと迫り来るような不気味さをただよわせていた。


 ルームミラーには巨大なフロントグリルとボンネットまでしか映らず、その上のフロントガラスと、その奥にいるはずのドライバーは全く見えない。いや、いるはず、ではない。いるに決まっている。まさか、いないなんてことが……。


「千晶さん、どうかしたの? 千晶さん」


 龍崎が再度呼びかけてくる。


「……車の感じが、なんだか慌ただしくなっているよ。速くなったり遅くなったりして、落ち着かないよ。どうしたの? 具合でも悪くなったの?」


「そ、そうですか? ああ、道を間違えてあせっちゃったのかなぁ」


 千晶は我に返ってアクセルを弱める。危うくスピード違反になるところだった。


「ちょっとスピードを出し過ぎましたね。すいません。怖いですよね」


「怖い? いや、僕はこんなのは怖くない。スピードは怖くない。僕はね、これでも運転が得意だったんだ。いつも安全に、確実に、正確な運転を心がけていたんだから。スピードには慣れているんだ」


「あ、そうですね。龍崎さんは電車を……」


「落ち着いて、落ち着いてね。千晶さん、怖がっているのは、あなたのほうだよ」


 龍崎はそう言うと、ややためらいがちに話し始めた。


「道を間違えたことなら気にしなくていいんだよ。本当に、全く大した問題じゃない。僕はそんなことで怒らない。怒るものか。認知症だってね……こんな程度でおかしくなったりしないよ。幽霊に乗っ取られたりなんかしない。僕は、千晶さんを信頼しているんだ。あなたは誠実で賢い女性だ。だから何も心配いらないんだよ」


「い、いえ、龍崎さん。違うんです」


「もし僕が、千晶さんを怖がらせているとしたら、謝るよ。僕は人の……特に若い女性の気持ちを知るのは、あまり得意じゃないんだ。この頃はもっと苦手になった。顔もあまり動かないから、何を考えているのか分からないかもしれない。でも僕は怒っていないよ。怒るはずがない。どうか信じてほしい。僕は、千晶さんと外へ出るのはいいんだ。僕はね、今を楽しんでいるんだよ」


「……ありがとうございます」


 千晶は正面を向いたまま龍崎に深く頭を下げる。いつの間にか張り詰めていた緊張感が静かにほどけていくのを感じた。そして必要以上に彼をあやぶみ、過剰にお客さま扱いしていたことにも気づいた。彼が何度も感謝を伝えたり、目的地までのルートや運転を気にしたりするのは、認知症の影響だけではない。年嵩としかさの男として、女のドライバーに対して紳士的に気遣きづかってくれていたのだろう。


「ご心配をお掛けして申し訳ございません。龍崎さんには本当に親切にしていただいています。それは充分に伝わっています。だから決して、怒られるんじゃないかと怖がっているわけではありません。私は龍崎さんを大変たのもしく感じています」


「本当? 僕に遠慮しなくていいんだよ」


「本当です。龍崎さんのせいじゃないんです。私が取り乱したのは……実は後ろの車がずっと気になっているからなんです」


 千晶はあらたまって告白する。龍崎には誤魔化ごまかすよりも相談すべきだと思った。


「後ろの車って?」


 龍崎は不思議そうにそう言うと、シートからゆっくりと腰を浮かして振り返る。やはり彼は後続車に一切気づいていなかった。


「後ろの車……うん、見える。黒い大きな車だね。ライトがぴかぴか光っている。あれがどうしたの?」


あおり運転をされているみたいなんです」


「何運転って?」


「煽り運転……凄く引っ付いてきたり、クラクションを鳴らされたり、ヘッドライトでパッシングをされたりすることです」


「嫌なことをされているの? それを何運転というのか」


「煽り運転です。危ないですからちゃんとシートに座ってください」

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