第13話

 店内からは腹の底を震わすようなBGMが響いてくるが、やはり客のざわめきは普段よりも少ない。客の入りが最も少ない曜日の、警報が発令されている夜では仕方ないだろう。今日はこのまま閉店まで待機室で過ごすことになるかもしれない。時折、さまざまな音に混じって車のエンジンを空吹からぶかしするような音が耳に届く。外で暴風雨ぼうふううが吹きすさんでいるのだろうか。


 夜間保育所に預けている息子の様子が気になった。


「ミライさん、はいチーズ!」


 キラがふいにカメラを向けたので、千晶は反射的にあごを持ち上げて、顔の横でピースサインを作って、流し目を向ける。カメラの角度、レンズの位置、部屋の照明、今日のメイク、全てを瞬時に判断して最高の一枚を提供するのがキャストのたしなみだった。


「うわっ、ヤベー! ミライさん、めっちゃ可愛いですよ! 宣材せんざいになりますよ、これ」


「じゃあ三千円ね」


「え、高くない?」


「お友達価格でしょ? こっちはこれでご飯食べてんだから」


「あ、ミライさんミライさん、こんな話知ってます?」


 キラが思い出したように顔を寄せて話しかける。この子は普段から他人より少し距離が近い。それを無頓着むとんちゃくに客の男にも仕掛けてくるから、やはりかなわなかった。


「えっとね、めっちゃ怖い話だけど、いい?」


「うーん、ちょっと駄目かな」


「えー、いいじゃん。この前お客から聞いたんですよ。本当、すげー怖いんですよ。話したーい」


「誰から聞いたのよ? あ、例の映画監督さん?」


「映画監督はミライさんのお客でしょ。私、あんなの取らないよ」


「こら、あんなのって言うな」


「でもあの人、本当に映画監督なんですか? 何の映画か聞きました?」


「知らないけど、そうだって言うから」


「えー怪しい。普通自慢しますよね? 私のお客にもいましたよ。俺、あの映画とあの映画と、あの映画にも関わっててよ、とか言って。すげーって思ってよく聞いたら、てめぇただのADじゃねぇかって」


「怖い話はもういいの?」


「あぁん、駄目駄目。本当に知りません? 『呪いの黒いラブワゴン』って」


「呪いの黒いラブワゴン……」


 千晶は聞き覚えのない単語を復唱ふくしょうする。


「最近、この辺りで働く女の子たちの間で噂になっているんです。深夜になると真っ黒なワゴン車がよく走ってるって」


「え、何それ? 怪談じゃなくて本当の話?」


「本当の話です。見たことありません? 御堂筋みどうすじ宗右衛門町そうえもんちょう通り、堺筋さかいすじ長堀ながほり通りの中であっちこっちぐるぐる巡回しているんです」


 大阪の中心部では主に南北の道路を『筋』、東西の道路を『通り』と分けて名付けられている。キラの言う4つの道路を結ぶと、この界隈を示す一辺700メートルほどの四角形となった。


「そんなの見たことないよ。ぐるぐる走ってる車って、タクシーや配送車じゃなくて?」


「全然違います。だってヘッドライトもけずにゆっくりと、歩くくらいの速さで移動しているんです。だから後ろに来ても気がつかないって」


「気持ち悪い……何が目的?」


「女の子を誘拐ゆうかいするんですよ。うちらみたいなのをさらって犯して殺すんです。一人で歩いていると狙われるんです。それで行方不明ゆくえふめいになった子だって何人もいるんですよ。みんなバラバラにされて淀川よどがわかどこかに捨てられているんです」


「えー、それ、本気でヤバい話じゃない」


 千晶はその光景を想像してぞっとする。この仕事をしていると充分に気をつけていても夜に一人で歩くことも多い。繁華街はまだ人通りもあるが、路地ろじへ一歩入ると誰の目にもまらない死角しかくはいくらでもあるだろう。人のいない暗がりを歩いていると、背後から黒い車が音もなく近づいてくる。あまりに日常的で容易よういに実感できる恐怖だった。


「……でも、それが本当なら事件じゃない。行方不明なんて起きていたら警察が取り締まるでしょ? 私、そんな話聞いてないし、店でもそんな話出てないよ?」


「ところが、そうはいかないんです」


 キラはさらに顔を近づけると内緒話ないしょばなしをするような小声になる。顔つきも先ほどまでの無邪気むじゃきな笑顔とは打って変わって、細い眉を寄せて不安にえているかのような表情になっていた。


「私、言いましたよね? 呪いの黒いラブワゴンって。普通、ただのヤバい車がそんな風には呼ばれませんよ。女の子を誘拐する黒い車に注意してくださいって言うだけですよ」


「キラちゃん、顔が怖いよ」


「その車も、元々はシルバーの古いワゴン車だったんです。商用車って言うんですか? この辺りの小さな工場でもよく使っている、荷物を運ぶための車です。それが長い時間をかけてボロボロになって真っ黒に汚れたんです」


「話を引っ張らないでよ。結局なんなの? 本当にそんな車が走ってるの? その運転手、犯人はどうして捕まらないの?」


「……運転手は、いないんです。車の中には誰も乗っていないんです。車の持ち主は、女の子をさらって殺していた犯人は、もう何年も前に自動車事故で死んでいるんです」


「え、ええ……それじゃ……」


「黒いワゴン車を走らせているのは、そこで殺された女の子たちの幽霊なんです。犯人もそれに呪い殺されたんです。それで、誰も乗っていない車だけが今も走り続けているんです。死んだ女の子たちが仲間を集めるために……」


 千晶は白いうなじに氷を落とされたような寒気を覚える。体温で溶けた水滴が、ざっくり開いた背中を伝って腰の下まで流れたような冷たさを感じた。それとともに、かすかな悲鳴がのどから漏れる。予想外の驚きと恐怖に体が震えた。


「キ、キラちゃん……」


「気をつけてください。ミライさんも一人でいると、ほら、黒いワゴン車がすぐ後ろに……」


《キラちゃーん。3番テーブル、ご新規さまー》


「あ、はぁい!」


 店内から黒服の呼び出しを受けてキラはパッと立ち上がる。顔と声はすぐにいつもの太陽のような明るさに一変していた。


「じゃ、行ってきまーす!」


「ええ、ちょっとキラちゃん。一人にしないで! 嘘だよね? 嘘の話だよね?」


「可愛い、ミライさん。やだなぁ、全部本当の話ですってば! ちゃらららら、ちゃらららら、ちゃらららちゃっちゃっ……」


 キラはどこかで聞いたホラードラマのテーマ音楽を口ずさみながら待機室から去って行く。千晶は伸ばした手でちゅういてそのままソファに倒れた。聞くんじゃなかった、と思っても、もう遅い。それから数日は頭の中で黒いワゴン車に付きまとわれる目にい、夜に後ろを振り返るくせもなかなか治らなかった。

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