第10話

 千晶は反射的に視線をらす。真夏の太陽のような強烈な光が真後ろからし込んでくる。じかに見ると目がくらんで危険だった。何が起きたかはすぐに察しがつく。後ろの車がヘッドライトを点灯させていた。


 今度は何? なんの真似まね


 昼間にヘッドライトをけるには理由がある。雨天や濃霧などで見通しが悪くなると前方確認と他者に車の存在を示すために点けることがある。あるいは信号のない横断歩道で歩行者に道をゆずる時や、対向車に右折をうながす時には停車してヘッドライトで合図を送ることもある。その際は長く点灯させるのではなく、一度二度と点滅させるパッシングが一般的だろう。


 しかし今はそのいずれの状況にも当てはまらない。他の理由があるとすれば、車内のセンサーが暗がりを感知して自動的にヘッドライトを点灯させるオートライト機能が働いたことだ。日没にはまだ早いが天気はすぐれず、灰色の空からは雨が降り出す予感もする。特に視界が悪いこともなく、また他にヘッドライトを点灯させている車はないが、センサーが誤作動した可能性もあるだろう。それが偶然にも光軸こうじくの上がったハイビームになっていて、さらに車の背が高い上に近づき過ぎていたせいでこちらのルームミラーを直撃して、しかもドライバー自身がそのことにまだ気づいていないとしたら……。


 千晶は小さく首を振ってその推測を全て否定した。偶然が重なるには無理がある。一番確実な理由は、この車への嫌がらせのためにわざと照射していることだった。


 鬱陶うっとうしい。何がしたいんだか。


 ルームミラーの角度を変えて、さらに頭を軽くらせて目を刺す光線をける。それでも道の勾配こうばいや段差を通るたびにLEDの強い明滅がチカチカとわずらわしく目の奥を刺激した。直線的な光なので助手席に座る龍崎の目には届かない。老人は前屈まえかがみ気味に腰を落ち着かせて、左右に緑地が続く前方の自動車道を静かに眺めていた。


 はいはい、道を譲るから、さっさと行って行って。


 千晶は肩の力を抜くと右のウィンカーを点滅させて車線変更を伝える。二車線の場合、普通は後ろの車が右車線に移って左車線を走る前の車を追い抜くものだが、たまに左車線のまま前の車を押し退けようとするドライバーもいる。なぜ俺さまが車線を変えなければならない、お前のほうがどけろとでも言いたいのだろう。


 そんな時は望み通りに先へ行かせてやればいい。私が隣の車線に移りますので、どうぞご遠慮なくお通りください。こちらは大切なお客さまを送迎している最中だ。見知らぬ俺さまのわがままに付き合う気などなかった。


 突然、黒い車が右車線に移った。


 ルームミラーの視界が開けて、右側のサイドミラーに黒色が浸食する。そして速度を上げて車の鼻先を後部座席の隣にまでねじ込んできた。同じく右にハンドルを切ろうとしていた千晶は寸前で思いとどまり接触を回避する。気が変わって追い抜くつもりか。しかし斜め後ろを併走へいそうする黒い車はそれ以上速度を上げようとはしなかった。


 千晶は点けっぱなしだった右のウィンカーを解除した。すると黒い車は速度を落として左車線に移り、再びぴったりと後ろに付いた。おい! と一喝いっかつするようなクラクションが聞こえる。距離が遠い。黒い車ではなく、さらに後ろの車が不審な挙動きょどうに驚いて思わず鳴らしたのだろう。


 遊んでいる。からかっているんだ。


 千晶はぎゅっと唇を噛む。車線変更をはばまれた。道を譲ろうとしていることに気づいて、先に隣へ突っ込んで動けないように仕掛けられた。追い抜きたいわけではない。道をけろとも言っていない。ただ後ろからあおり立てるのが黒い車の目的だと分かった。


 カーナビの指示に従い富雄とみおインターチェンジで阪奈道路を下りると、県道をかいして国道168号線を南下する。黒い車もあとに続くと、なおも極めて狭い車間しゃかんを保ちながら追走ついそうしてきた。この国道も片側二車線の広い幹線道路だが、やはり黒い車は右車線が空いているにもかかわらず左車線を走る千晶の背後から離れない。他の車からは、友達同士が二台の車に分かれて、離れずに同じ目的地へと向かっているようにも見えるだろう。


 怒って文句を言うべき? いや……。


 赤信号でブレーキを踏むと黒い車も顔をぴったりと寄せて停車する。今なら車から下りて後ろへ回ってドライバーに注意できる。煽り運転はやめろ。危ないから近づくな。これ以上続けるなら警察に通報するぞと叱って車に戻ることもできるだろう。


 しかし千晶の手はハンドルから離れない。もしも相手が普通ではない人間だったらどうする? 強面こわもてで体の大きな男とか、気味悪い笑みを浮かべた中年の男とか、ヒステリックに騒ぎ出す女だったらどうする?  話が通じないばかりか、かえって火に油を注ぐことにもなりかねない。まさかとは思うが暴力をふるわれる可能性もあるだろう。


 また警察に通報すると事情聴取や状況の確認に多くの時間が取られて龍崎の送迎もできなくなってしまう。前に矢田部から、送迎中に何かあったら全部あなたの責任だからと言われたが、それは間違いではない。どんな事情であれ、送迎中に警察沙汰ざたを起こしたタクシーという悪いイメージが付いてしまうだろう。


 そう考えている内に信号は青になり、再びアクセルを踏まざるを得なくなる。やはり今日は不運に付きまとわれているのかもしれない。嫌がらせを受ける理由は考えても意味がないだろう。背後から忍び寄る痴漢ちかんや通り魔に向かって、なぜ私を付け狙うのかと尋ねる者などいない。あおり運転の罰則が厳しくなったとはいえ、そもそもあおり運転をするような厄介者やっかいものがそれで行為をひかえようと思うはずもなかった。

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