第9話

 新たに来た車はヘッドライトが消えるとともにエンジンが停止し、運転席のドアが開く。遠目とおめでは分かりにくいが現れた人物は白いタオルを頭に巻いており、のんびりとした動作から中年の男を思わせた。男は車のバックドアを開けるとクーラーボックスと釣り竿を取り出して岸壁がんぺきへ向かう。橋の下からはさらに遠ざかり、こちらの姿や車に気づいた様子はなかった。


 金時計の足は遠くに見える釣り人のほうを向き、それから近くの海のほうを向く。ゆるやかに波打つ海面は小石が落ちても波紋はもんを広げ、また海流はゆっくりと釣り人のほうへ向かっていた。暗闇と騒音で満たされたここで何が起きたとしても、関心のない釣り人が気づくことはない。しかし今まさに目を向けている海に異変が起きれば、きっとこちらを振り返るだろう。


 金時計は地面に倒れるゴミ袋をかぶった男を向くと、先ほどとは反対側に爪先つまさきを入れて転がし岸壁から遠ざける。ごろりごろりと体が回って橋脚きょうきゃくの壁面にぶつかるまで追いやった。それから右手を持ち上げると時刻を確認するような仕草を見せる。男はしばらく倒れたまま動かなかったが、ふと息を吹き返したように頭を持ち上げた。


 金時計はその頭をサッカーボールのように蹴り飛ばした。


 ごんっと男の頭がコンクリートの壁面に激突して、そのまま地面にすべり落ちる。金時計はその後も数回、まるで害虫を駆除くじょするかのようにためらいなく男の頭を足で踏み抜いた。辺りには暴力的な衝撃音が響き、やはり騒音に混じって消えていく。人間の耳は会話や叫び声には鋭敏えいびんに反応するが、よく似た無機質な音は聞き流すものだった。


 やがて男がぴくりとも動かなくなると、金時計はきびすを返して車へ戻る。そして運転席に乗り込んでエンジンをスタートさせると、ヘッドライトを点灯させず静かに車を発進させて岸壁からびた坂道へ向かった。


 遠くの釣り人は海のほうを向いたまま振り返ることなく、ゆっくりと背後の坂を上がる車にすら気づいていない。


 たとえ気づいたとしても、もう手遅れだった。




【8月20日 午後4時43分 県道一号 奈良生駒線】


 ぞっと、背中の産毛うぶげ逆立さかだつような感覚を覚える。


 最初に頭をぎったのは、またしても奇妙な既視感きしかんだった。


 紀豊園で会わなかった矢田部を思い出した感覚。


 光景はまるで違うが、同じような嫌悪感けんおかんに体が震えた。


 後ろを追従ついじゅうしているのは真っ黒な大型のバンらしい。濡れているかのように光るボンネットの下に、鋭利えいりな刃物を並べたような大型のフロントグリルが付いている。それがかすようにリアウィンドウのぎりぎりまで迫っているのがルームミラーに映っていた。


 また来たの?


 千晶は口の中でつぶやく。既視感は数十分前、紀豊園を訪れて龍崎を車に乗せる前までさかのぼる。後方の視界をさえぎる、黒くて大きな車。しかし同じものではないだろう。先の車は紀豊園の前で離れるとクラクションを鳴らして走り去った。引き返して再び追いかけて来るほど根に持たれているとは思えなかった。


 見えない圧力を背中に感じながら、千晶は一定の速度で走行を続ける。車を運転していると、自分の体が拡大したように錯覚さっかくする。ボンネットの先、バンパーが顔の真正面になり、左右のサイドフェンダーが肩のはしになる。車の幅と体の幅が一体となり、箱に乗っているという感覚がなくなってくるのだ。


 そして後方のリアウィンドウは運転席のシートを超えて背中と一体になる。すると後続車はまさに数センチほどの背後に迫っているかのように感じられた。時速50キロで他人がぴったりと付いてくる状況は、気持ち悪さを超えて恐怖をあおられる。停まれば追突は避けられないだろう。


 何こいつ、何考えてんの?


 千晶は息を吐いて気持ちを落ち着かせると、右足首を曲げてアクセルから爪先を浮かせる。これ以上速度を上げることはない。法定速度を守っている上に二車線の左側を走行していた。早く行きたいなら右車線から追い越せばいい。道もほどほどにいていた。


 黒い車は、それでも後ろから離れようとはしなかった。


「来るな……」


 ふと、左から声が聞こえる。龍崎がじっと正面を見えたまま、のどの奥からしぼり出すようなうめき声を漏らしていた。


「やめろ……邪魔をするな。今はそれどころじゃない。どこかへ行ってしまえ……」


 龍崎の声は次第に大きくなって車内に響き渡る。一瞬、不気味な後続車に対して訴えているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。龍崎の目はダッシュボードのマスコットをずっと凝視ぎょうししており、ルームミラーやサイドミラーで後方を確認することもなかった。


「龍崎さん? どうしましたか?」


「龍崎……そう、僕は龍崎善三、80歳。住まいは……今は老人ホームの紀豊園で暮らしている。紀豊園の、2階の、205号室。4号室はない。4号室は、死につながるから……」


「龍崎さん!」


 千晶はやや声を大きくして呼びかける。龍崎はわずかに肩を震わすと話を止めて硬直こうちょくした。


「龍崎さん、分かりますか?」


「あ、ああ、はい……」


 龍崎は首を動かして状況を確認している。まるで寝起きか、初めて訪れた場所でとるような態度だった。


「ここは……どこだっけ?」


「ここは車の中ですね。龍崎さんは車に乗って私とお墓参りに行くところです」


「墓参り……そう、そうだ。僕は墓参りに行くんだったね。うん、千晶さんだ。分かっているよ」


「お疲れですか? ちょっとまって休憩きゅうけいしましょうか」


「ううん、平気だ。もう収まったよ。停まらなくていいよ」


「はーい、じゃあこのまま行きますね。しんどくなったら言ってくださいね」


 千晶はつとめて明るい口調で返答する。深刻にとらえて不安にさせてはいけない。うたた寝をして悪い夢でも見たのか、認知機能の障害で意識が混乱していたのか。少し心配だが今の状況では対応に限りがある。龍崎はこちらを見ながら、もごもごと口を開いた。


「千晶さん。僕ね……今、勝手に何かしゃべっていなかった?」


「そうですね。何かつぶやいておられましたけど、よく聞こえませんでした」


「そう……それならいいんだ。心配させてごめんね」


 龍崎はほっと溜息ためいきをつく。誰でも寝言は聞かれたくない。体力もなく意識も不安定で介護施設に入居しているが、龍崎善三は幼稚園の子供ではない。50歳も年上の男で、大切なお客さまだ。自尊心じそんしんを傷つけずにうやまうことも大切な仕事だった。


 そう思った矢先、ルームミラーがいきなり照明灯しょうめいとうのように光った。

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