第8話

「龍崎さん、ちゃんとシートに座って前を向いていてください。こっちを見ていると危ないですからね」


「千晶さん」


「はい、なんですか?」


「何か、僕にできることはないかな?」


「え? ああ……いえ、大丈夫ですよ」


「遠慮はいらないよ。こんなに良くしてもらっているんだ。僕は何でも協力するよ」


「何もいりません。ありがとうございます」


 千晶は左のてのひらを龍崎に見せてきっぱりと断った。


 夫の話によると、龍崎は元々鉄道会社に勤務していたという。JRなのか他の私鉄なのか、運転士だったのか事務や設備関係だったのかは知らないが、定年退職まで勤め上げたようだ。その後はシルバー人材派遣会社に登録して地域の軽作業をったり、ボランティア活動に取り組んだりしていたらしい。しかし認知症の兆候ちょうこうが見られるようになったので老人ホームへ入所したそうだ。


 若かりしころの容姿は想像できないが、歩んできた人生の痕跡こんせきはその性格に染み付いている。目的地までのルートが気になり、時間や予定に厳しく、他人の子供を心配して、親身になって無償の協力を惜しまない。真面目で心優しい人柄がうかがえた。


「龍崎さんは何も心配しなくていいです。お元気でいてくれるだけで充分です」


「元気。ああ、僕は元気だ。まだ目も耳も手も足も達者たっしゃなんだ。膝や股関節だって痛くないよ。でもね、頭のネジがゆるくなっちゃった」


「大丈夫、しっかりされていますよ。ちゃんとシートに座って前を向いていてください」


 千晶は明るい声で注意をうながす。前方の景色は生駒山の裾野すそのに差しかかり、道は次第に起伏に富んだ地形へと変わりつつある。


 その視界の左上が、黒一色に塗り潰される。


 ルームミラーに映る後方に、黒くて大きな車が迫っていた。




【■月■日 ■時■分 ■■■■■】


 コンクリートで固めた岸壁がんぺきに波がゆったりと打ち付けられて、潮気しおけを含んだ生温なまぬるい風が薄暗い闇の中でよどんでいる。


 辺り一帯は洞窟どうくつのように暗く湿り、動くものはどこにも見当たらなかった。


 空は太い鉄骨を格子こうし状に組んだ屋根におおわれて、月明かりも間接的にしか届かない。


 大型動物が咆哮ほうこうしているかのような厚みのある低音が、耳をふさぐほどの大音量でこだましていた。


 頭上からびた巨大な橋が空をつらぬき遠くの夜景に連結している。ここは沿岸部に設けられた埋め立て地で、本土とを繋ぐ自動車道が通る橋の下だった。目の前の海は外洋ではなく内側を向いているので、波も穏やかで溜池ためいけのように揺らいでいる。遮蔽物しゃへいぶつが多いので岸辺の強風もなく、空気は重みがあるようにゆっくりと流れていた。


 潮風しおかぜさらされた人工島の中で、唯一生まれた吹きまりような場所。絶え間なく続く騒音は、橋を渡る車の走行音が道路の下まで伝わることで鳴り響いていた。島内には発電所を中心に海運業者の倉庫が建ち並び、大きなコンテナをせたトラックや商用車が昼夜を問わず行き交っている。一方で民家や店舗は存在せず鉄道も通っていないので、用事もない者が歩き回るような地域でもなかった。


 日が暮れても昼間の暑気しょきが払い切れない夏の夜。橋の下では隠れるように、一台の車が停車していた。


 岸壁の途中には上り坂があり、その先は橋のたもとへ繋がっている。車は主要道路から外れたその脇道を通ってここへやって来た。近くにはさびの浮いたコンテナやエンジンの外された小型船舶せんぱくが放置され、数が余ったのか取り除かれたのかも分からないコンクリートの消波しょうはブロックが置き去りにされている。そのため車を停めても海辺の景色などほとんど望めないが、逆に言えば外からもこの車が目に付くことはなかった。


 運転席のドアが静かに開くと、その隙間からちらりと覗く光があった。ドライバーの右手首に巻いた太い金色の腕時計が外のわずかな光を反射させていた。本物の金素材か、見せかけの金塗装かは定かではない。ただ習慣的に、右手に腕時計を着ける者に左きが多いことは事実だった。


 車を降りた金時計は続けて後部座席のドアを開ける。そして上半身を車内に入れると、そこに積んでいた大きくて長い何かを両腕で抱えて外へと引きずり出した。相当な重量があるらしく、車から出されるなり重い音を立てて地面に転がる。扱いかたは乱暴で、その様子は人目に付かない橋の下に大型ゴミを不法投棄ふほうとうきしているようだった。


 捨てられたのは、黒いゴミ袋を頭からかぶせられたスーツ姿の男だった。


 やや太り気味の体格に安い既製品きせいひんのスーツを着た男は、両手を後ろに回して太い銀色のテープでしばられている。コンクリートの地面に倒れているが両足はのたうつように動いており、胸と腹は走り回った犬のように激しい呼吸運動を繰り返していた。頭のゴミ袋からはくぐもったうめき声を漏らしているが、騒音にき消されて内容までは聞き取れない。立ち上がる気力まではないらしく、周囲の状況も分かっていないようだった。


 金時計は後部座席のドアを閉めると、海のほうを向いて立ち止まる。満潮に近い時刻らしく、海面はかなりの高さまで上昇していた。それを確認すると男のほうを振り返り、ゴツゴツと固い音を立てながら近づいていく。迷彩柄めいさいがらのカーゴパンツを身に着けて、底の厚い黒色のブーツをいていた。


 男はその場に倒れたままでいたが、地面に響く足音が聞こえると身をよじって逃げるように転がる。金時計は歩みを止めずに追いつくと、両手で男の左足をつかんで海へ向かって引きずり始めた。スーツの上着がその勢いでめくれ上がる。男は反射的に自由な右足を振って金時計の腕を蹴った。


 金時計は両手を離すと、硬いブーツの底で男の右膝を力一杯踏み付けた。


 数秒ののち、男は左足を地面に打ち付けながら背筋を伸ばして激しくもだえる。右膝の下が不自然な形に折れ曲がり全く動かなくなっていた。金時計は構わず男の両足首を掴んで持ち上げる。その時、男の上着からスマートフォンが転がり落ちた。


 金時計は男の両足を離すとスマートフォンを拾い上げて起動する。画面ロックがかかっていたので男の人差し指を使って強引に指紋認証しもんにんしょうを解除した。しばらく画面を操作していたが、やがて手を止めるとスマートフォンを地面に落として足で踏み潰す。上を向いていた液晶画面にクモの巣のようなひびが走った。


 あらためて金時計は男の両足をつかんで引きずる。男はもう抵抗することなく、死んだアザラシのように身を投げて浅い呼吸を繰り返していた。岸壁の側まで寄せると両手を離して男の後ろへ回る。そして上半身に爪先つまさきを入れてごろりと海へ向かって転がし始めた。


 その時、ふと金時計はぴたりと動きを止める。


 橋のたもとからヘッドライトを点けた一台の車がやって来て、金時計の車からやや離れたところに停車するのが見えた。

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