第7話

「ラジオは消しておきますか?」


「消さなくていい。ラジオは消さなくていいよ。うるさいほうがいいの。うるさいほうがね、僕は落ち着くの」


《午後のひととき、コーヒーのハマムラ提供、今日のプレゼント。今日は大阪西梅田にしうめだのケーキショップ、コトブキッチンの『ゆるふわロール』をお届けします。わぁ、これって、いつも行列が凄いお店ですよね? 行きたいなぁって思っていたんです。ええと、『ゆるふわロール』は厳選された卵とミルクを使って、ふんわりとした生地でたっぷりのクリームを巻いた柔らか食感の……あ、ちょっと吉世夢きっちょむさん、まだ食べちゃ駄目ですよ。紹介の途中ですから。吉世夢さん、こら、ステイ!》


 スピーカーからはテレビでも聴いたことのある女子アナウンサーと落語家タレントの軽妙けいみょうなトークが流れている。特に興味をかれない話題だが、龍崎の言う通り雑音として車内に響かせておくのも悪くはなかった。


「無事かえる。無事、かえる」


 龍崎は正面を向いてふいに声を上げる。ダッシュボードの上にはソーラーパネルの電力で頭を揺らすカエルのマスコットを貼り付けていた。その白い腹には『無事かえる』と筆字でプリントされている。他の老人ホームに入居する女性から運転の安全を祈ってプレゼントされたものだった。


「千晶さん、わざわざ来てくれてありがとうね」


「いえいえ、それが仕事ですから」


「あなたは運転が上手だ。進む時もまる時も、すーっと動いてくれるよねぇ。僕はね、あまり激しいのは苦手なの」


「本当ですか? ありがとうございます」


「車の運転は人柄が出るんだ。千晶さんが優しい人だから、運転も優しくなるんだよ」


「そんなにめても何も出ませんよ」


「僕はもう車の運転もできない。免許証も返納しました。集中力が長続きしないのよ。目も耳も手も足も達者たっしゃだけど、なんでかなぁ、頭のネジがゆるくなっちゃった」


「そうですか? しっかりされているように見えますけど」


「自分で分かるんだよ。だから車の運転はできないの。千晶さん、わざわざ来てくれてありがとうね」


「いえいえ、それが仕事ですから」


 龍崎はカエルのマスコットを笑顔で見つめている。楽しげというよりは、普段からその表情のままでいるのだろう。会話も声の抑揚よくようが少なく、受け答えもたどたどしい。だが自分の置かれている状況を理解しており、現実を繋ぎ止めようと努力している様子がうかがえた。


「千晶さん、すまないけど地図は持っていないかな? 僕ね、あまりよく場所を覚えていないみたい」


「大丈夫です。私が知っているのでご安心ください。青丹台霊園ですね。ご家族のお墓参りですか?」


「そう、墓参りに行くの。思い出したんだぁ。お世話になった人の墓があるんだよ」


「お盆ですからね。ちょっと過ぎましたけど。いつもお一人でお参りされるんですか?」


「一人では行かないよ。僕は勝手に一人で紀豊園の外へは出ちゃいけないの。だから前は戸村くんと行ったね。もっと前は一人でも行ったよ」


「今日は私がお付き合いしますね」


 千晶の言葉に龍崎はうなずく。定期的に介護タクシーを利用しているということは、近くに自動車を所有している家族や身内がいないのだろう。あるいは身内から忌避きひされているのか、龍崎自身が遠慮して頼めないのかもしれない。老人ホームに入居する高齢者たちは様々な家庭の事情を抱えていた。


 古代遺跡の平城宮跡へいじょうきゅうせきを右手にのぞんで西へ進み、阪奈道路に入って左側車線を走行する。車の流れはスムーズで渋滞の心配もなさそうだった。龍崎は正面を見つめたまま、大阪、生駒、とか、飲酒運転、懲役ちょうえき5年、とかつぶやいている。経路案内の青看板や道路情報の電光掲示板を読んでいるようだ。


「千晶さんは運転が上手だねぇ。他の人も迎えに行くの?」


「そうですね。たくさん送り迎えしていますよ」


「ああ、そうなんだ。じゃあ早く行かないといけないね」


「いえ、今日は龍崎さんの送迎で終わりです。あとは子供のお迎えだけですね」


「子供のお迎え……子供がタクシーを使うの? 贅沢ぜいたくだねぇ」


「お客さんじゃなくて、私の息子です。放課後児童クラブ、小学校の子供を預ける施設みたいなところに入れているんです」


 千晶は分かりやすく説明する。龍崎はやや驚いた顔でこちらを見つめていた。


「千晶さんは、息子さんがいるのに働いているの?」


「そうですよ。そのためにもたくさんかせがないと」


「そんなに……生活が大変なの?」


「いえいえ。今は大体、どこもそんなもんですよ」


 千晶は気丈きじょうに振る舞って笑い飛ばす。龍崎はあまり冗談の通じない人らしい。稼ぐ必要があるのは事実だが、客の彼に心配されるものでもなかった。


「母親が子供と一緒にいられないのは良くないよ。絶対に良くない。どうしてそんな世の中になったのかなぁ」


「本当ですね。でもまあ、それでも楽しくやっていますから。息子も外で友達でも作ってくれたらいいなと思っています」


「施設の暮らしは寂しいものだよぉ。僕は知っているんだ。何から何まで監視かんしされてね、自由がないんだ。食べる物も、冷房の温度も決まっている。つまらないテレビを観させられて、歌だのお遊戯ゆうぎだのさせられて。僕はああいうのは苦手だなぁ」


「紀豊園とはちょっと違いますから。でも体は動かすのはいいことですよ」


「誰か、助けてくれる人はいないの? それじゃ子供がかわいそうだ。近所の人に預けるとか、親……千晶さんのご両親とか、昔はそんな子も多かったんだよ」


「近所の人に預けるのはないですね。親も、うちはちょっと難しいかな。父はもういないし、母も今は入院しているので」


「入院? どうして? 具合が悪いの?」


「そうですね……いえ、夏バテがたたったんだと思います。遊びすぎですよ」


 千晶は何でもない風をよそおう。末期のガンに冒されているなどと言えばさらにショックを受けるだろう。顔の左側に龍崎の小さな視線を感じる。誤魔化ごまかしていると疑っているのか。男性は認知症になると頑固で疑り深く、さらに悲観的になる人が多い。運転を褒められたことに気を良くして、プライベートの事情を話し過ぎたのも良くなかった。

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