第6話

「ちょっとあなた、ちゃんと聞いてる?」


「芹沢です。……ご忠告痛み入ります。気をつけて対応にあたらせていただきます」


 千晶は龍崎に目を向けたまま殊更ことさら丁寧に返答する。気をつけるべきは龍崎ではなく矢田部のほうだ。彼女は女のタクシードライバーだけでなく、同じ施設の先輩や入居する高齢者にまで強く不満を抱いている。要するに自らの境遇そのものが気に入らないようだ。


 しかし部外者の千晶にはどうすることもできない。矢田部の相談に耳を傾ける立場でもなければ、そんな義理もない。できることは、依頼者を車に乗せて送迎することだけだった。


「初めまして、龍崎さん。今日はよろしくお願いします」


「はいはい、どうもご苦労さんですね。ええと……」


「きたまちケアタクシーの、芹沢です」


「はい、芹沢さんね。お名前は?」


「え? ですから芹沢……千晶です」


「千晶……千晶さんだねぇ。はい、どうぞよろしく」


 龍崎はれたまぶたの下にあるつぶらな瞳でまばたきを繰り返す。千晶さんや千晶ちゃんなど親しい他の高齢者からは名前で呼ばれることもあるが、初対面の男性からいきなりそう呼ばれたことはなく少し戸惑った。れしいと感じたが目くじらを立てるほどではない。きっと娘か孫を相手にしている感覚なのだろう。


「セクハラされないように気をつけて。すぐに触ってくるから」


 矢田部はなおも龍崎を無視して忠告する。千晶は顔を上げて矢田部のほうを見たが、すぐに視線をずらして彼女の背後に目を向けた。そしてわずかに眉を上げて会釈えしゃくする。すると矢田部は慌てて振り返って自分の後方を見た。


「……何?」


「はい、何でしょうか?」


 千晶は不思議そうな顔で矢田部を見つめる。彼女の後ろには誰もいなかった。


「今あなた、なんで後ろに向かってうなずいたの?」


「え、後ろ? ……私はただ、気をつけてと言われたので、分かりましたというつもりでうなずいただけですが」


「ああ、そう……」


 矢田部はちらちらと辺りに目を向けながら言うと、苛立いらだたしげに右足を揺すった。


「何ぼうっとしてんの? 分かったならさっさと行ってよ。こっちも忙しいんだから」


「承知しました。では龍崎さんをお預かりします」


「送迎中に何かあったら全部あなたの責任だからね」


 千晶は深く頭を下げてから龍崎を連れて施設を出る。矢田部の恨みがましい視線を後頭部に感じていた。老人への暴言を聞くにえかねたあまりの悪戯いたずらだったが、子供じみた仕返しだったと少し反省した。


 駐車場へ向かう途中、隣を歩く龍崎からぽんっと腰の辺りを叩かれた。まさか今の行動をめたわけではないだろう。単にぶつかっただけか、あるいはセクハラのつもりか。龍崎は特にこちらを見ることなく、大きめに体を揺らしながら足を進めている。矢田部の嫌な気持ちに感化かんかされて神経質になっている。千晶は気づかないふりをしてやり過ごした。



【8月20日 午後4時31分 県道一号 奈良生駒線】


 青丹台あおにだい霊園は奈良の西、生駒山地の裾野すそのに設けられた墓地らしい。カーナビによると紀豊園からは県道一号奈良生駒線、通称『阪奈はんな道路』を大阪方面に向かって進み、途中の富雄とみおインターチェンジで南下するルートになっていた。所有時間は片道30分弱なので、現地で半時間ほど過ごしても午後6時には老人ホームまで送り届けられる。待たされることの多い病院への送迎とは違い、計画が立てやすい楽なドライブだった。


「龍崎さん、エアコンは寒いですか?」


「寒くない。寒くないよ。涼しくてちょうどいいね」


 助手席の龍崎は笑みを浮かべたまま首を振る。通常のタクシーでは客は後部座席に乗車するが、この福祉車両は車椅子を搭載できるように後部座席を外しているので客は隣に乗ってもらうことになっていた。


「ホームは28度、いつも28度なんだよねぇ。だから夕方がとっても暑い。窓から西日が入るからカーテンを閉めなきゃいけない」


「エアコンの設定温度ですか? ちょっと高いですね」


「省エネだぁ。節約だぁ。贅沢ぜいたくは敵だぁ。じっとしていたら慣れくるよ。じっとしていなきゃいけないねぇ」


「龍崎さん、シートベルトを着けてください」


「介護士さんや職員さんは動き回ってるの。仕事だから仕方ないよね。毎日、暑い、暑いと怒っている」


「それは困りますね。龍崎さん、シートベルトを着けてください」


「シートベルト、はい、シートベルト」


「ゆっくりで良いですからね」


 龍崎はうんうんとうなずきなら腰をひねってシートベルトを引き出して装着する。一つ一つの動作は緩慢かんまんだが特に介助は必要はなく、注意力や判断力などの認知機能も極端に低下してる様子はなかった。千晶は気をつかわせないようにしながら注意深く見守る。環境の変化が良い刺激になるのか、老人ホームにいた時よりも饒舌じょうぜつになっていた。


 三か月前、千晶に向かって理不尽な怒りをあらわにしていた矢田部のことは、夫の戸村にも愚痴ぐちこぼすように伝えている。しかし彼は担当者として紀豊園に通っているにもかかわらず、彼女に対しては特に悪い印象を抱いていなかった。ただ普通、若槻や他の者たちと比べると若く物静かで真面目な介護士だと話していた。


 それでは、あの時に見た矢田部の姿は何だったのか。たまたま機嫌が悪かっただけなのか。いや、相手によって態度を変える女も少なくはない。男の戸村には何も言えず、つつましい振りをしている可能性もある。卑怯ひきょう底意地そこいじの悪さを感じるが、それだけに今日見かけなかったのはお互いにとって幸運だった。気の合わない人とは、会わないことが一番だった。


 タクシーメーターを『予約』から『実車』に切り替えて運転をスタートする。福祉タクシーも通常のタクシーと同じくメーターを取り付けて、乗車時間と走行距離で運賃が定められている。要介護者の通院など特定の条件を満たしていれば介護保険が適用される場合もあるが、今回は介護とは無関係の墓参ぼさんなので通常料金となる。支払いは月末に口座からの引き落としが設定されていた。

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