第5話



【5月13日 午後1時8分 特別養護老人ホーム『紀豊園きほうえん』】


 およそ三か月前の5月の半ば、千晶は紀豊園で矢田部と初めて顔を合わせた。


 ゴールデンウィークを過ぎて再び日常へと戻った頃、やけに風が強く気持ちの落ち着かない午後だった。受付で到着を伝えてエントランスで待機していると、廊下の奥から介護士の女が足音を響かせてやって来た。背が高くせており、常に不機嫌そうな表情をしている。隣の龍崎は右の手首を強くつかまれて、無理矢理引きずられるように歩かされていた。


「あなた誰?」


 女は千晶を見つけるなりぶっきらぼうにそう投げかけてきた。まるで面倒な訪問販売のセールスマンに問いただすような冷たい口調。初めから何を言われても拒否するつもりの態度。胸元のネームプレートには矢田部と書かれていた。


「いつもの人じゃないの? 勝手に担当者を変えられると困るんだけど」


「申し訳ございません。きたまちケアタクシーの芹沢です」


 千晶は面食めんくらいつつも丁寧に頭を下げる。この施設へは何度か訪れているが、今まで彼女を見かけたことはない。新たに採用した人間なのか。声の低さと横柄おうへいな態度から、やや年上の30歳くらいに見えた。


「戸村は先の送迎が長引いているようなので、代わりに私がお迎えにあがりました」


「何それ? うちはどうでもいいってこと?」


「いえ……事前に会社から変更のむねをお伝えしているかと思いますが」


「知らないし。連絡があったところで、あなたが来るのは同じでしょ」


「おっしゃる通りです」


「だったら言い訳しないでくれる? タクシーなんて別にあなたの会社に頼まなくても良いんだから」


 矢田部は千晶に言い返されたがのが心外とばかりに非難する。勢いよく吐き出される呼気の中に、かすかなタバコの臭いを感じた。戸村との急な交代や、その連絡がうまく伝わっていなかったのは、こちらの落ち度と思われても仕方がない。ただ、そうとしても矢田部の態度は尊大で粗っぽく、言葉遣いも刺々とげとげしかった。


「失礼いたしました。以後気をつけます」


 千晶は理不尽さを感じつつもへりくだって謝罪する。この程度のことで腹を立てるほど短気ではない。夫の代役でもあり揉め事を起こしたくなかった。


 矢田部はまだ何か言おうと口を開いたが、ちょうど介護士の若槻が通りがかったのでそのまま口をつぐんだ。若槻は何か仕事の途中らしく、せかせかと足を動かしてエントランスを横切って行く。それでも以前に見知った千晶の姿に気づくと、歩きながらも笑顔を向けて小さく手を振り挨拶あいさつした。千晶も無言で微笑ほほえ会釈えしゃくこたえた。


「馬鹿みたいにヘラヘラ笑って……何よそ見してんの? あなたの仕事はこっちでしょ?」


 矢田部は若槻が消えるなり居丈高いたけだかに戻って叱責しっせきする。千晶は吐き捨てるような悪口に驚いたが、どうやら初めの言葉は自分にではなく若槻に対して言ったつもりのようだ。


 老人ホーム内で何か問題が起きたのか。きっと何か嫌なことでもあったのだろう。ベテランの若槻には強く言えないので、代わりに出入りの業者にきつく当たってさ晴らしをしているのかもしれない。介護タクシー会社の人間を見下している風でもあった。


「大体、タクシーの運転手が女ってなんなの? 人手が足りなくて事務員に任せているの?」


「いえ、私は正式なドライバーとして業務にあたっています。会社でも私を含めて三名の女性がドライバーとして勤務しておりますので」


「だから何? 正式か何かは知らないけど、頼りないって言ってるんだけど」


「私は、勤続三年目になりますが安全運転をモットーに無事故無違反で業務を続けています。会社の優良ドライバーにも選ばれていますので、ご安心いただけるかと思います」


 千晶はおくすることなく笑顔で答える。一般のタクシー業界ではドライバーの大半は男だが、福祉関係に特化すれば女のドライバーも少なくはない。深夜の繁華街で酔客すいきゃくを乗せるのは不安だが、日中に高齢者や障碍者しょうがいしゃなど生活弱者を送迎するのだからトラブルに見舞みまわれる可能性も少なかった。ドライバーも利用者も、タクシーというよりは介護のサポートを行っている印象が強く、特に男女の差を意識されることもなかった。


 しかし千晶はそこまで話すつもりはない。矢田部のような相手には余計な説明をすべきではないと経験的に知っていた。言い負かしたり説得を試みたりしたところで火に油を注ぐだけだ。とはいえ卑屈になったり、上辺だけの謝罪を繰り返したりもすべきではない。笑顔で誠実に受け答えするのが最良だった。


 矢田部も次の嫌味が思いつかなかったのか、はぁっと大袈裟おおげさに溜息をついて目をらす。そして左手を強く引いて隣の老人、龍崎を前に突き出した。


「ほら、早くこっちへ来て」


「危ない!」


 千晶は慌てて両手を差し出す。龍崎はよろめきながらも転ばずに持ちこたえた。


「龍崎善三さん、80歳。会ったことある?」


「い、いえ。私は初めてお目にかかります」


「本当に大丈夫? 七条しちじょう総合医療センターへ定期検診。2時から。場所、分かってる?」


「大丈夫です。他のかたも通院されている病院ですから行き慣れています」


「言っておくけど、龍崎さん、頭がちょっとあれだから気をつけて。だからいつもの人が良かったのに」


 矢田部は冷めた眼差まなざしを向けつつ、自分のこめかみの辺りを人差し指でとんとんと叩く。言葉をにごしたがそのジェスチャーで千晶にも察しが付いた。認知症の傾向があると言いたいようだ。


「急に怒ったり泣いたりするかもしれないけど、うまくなだめて。妄想もうそうで嘘をくこともあるから話を信用しないで。それとお金とか物とか受け取らないように。金持ちだからってすぐに渡そうとしてくるから」


 千晶は返答せずに龍崎を見つめる。矢田部の発言が聞こえなかったのか、それとも自身のこととは思っていないのか、しわだらけの顔に笑み浮かべて大人しくたたずんでいた。認知症のランクが高くなると日常生活もままならず、車に乗せて移動するにも注意を払わないといけない。ただ、見る限りではまだそこまで症状が重くなっているようには思えない。普段の送迎を担当している夫からもそういう報告は受けていなかった。

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