第5話
四
【5月13日 午後1時8分 特別養護老人ホーム『
およそ三か月前の5月の半ば、千晶は紀豊園で矢田部と初めて顔を合わせた。
ゴールデンウィークを過ぎて再び日常へと戻った頃、やけに風が強く気持ちの落ち着かない午後だった。受付で到着を伝えてエントランスで待機していると、廊下の奥から介護士の女が足音を響かせてやって来た。背が高く
「あなた誰?」
女は千晶を見つけるなりぶっきらぼうにそう投げかけてきた。まるで面倒な訪問販売のセールスマンに問い
「いつもの人じゃないの? 勝手に担当者を変えられると困るんだけど」
「申し訳ございません。きたまちケアタクシーの芹沢です」
千晶は
「戸村は先の送迎が長引いているようなので、代わりに私がお迎えにあがりました」
「何それ? うちはどうでもいいってこと?」
「いえ……事前に会社から変更の
「知らないし。連絡があったところで、あなたが来るのは同じでしょ」
「おっしゃる通りです」
「だったら言い訳しないでくれる? タクシーなんて別にあなたの会社に頼まなくても良いんだから」
矢田部は千晶に言い返されたがのが心外とばかりに非難する。勢いよく吐き出される呼気の中に、かすかなタバコの臭いを感じた。戸村との急な交代や、その連絡がうまく伝わっていなかったのは、こちらの落ち度と思われても仕方がない。ただ、そうとしても矢田部の態度は尊大で粗っぽく、言葉遣いも
「失礼いたしました。以後気をつけます」
千晶は理不尽さを感じつつも
矢田部はまだ何か言おうと口を開いたが、ちょうど介護士の若槻が通りがかったのでそのまま口を
「馬鹿みたいにヘラヘラ笑って……何よそ見してんの? あなたの仕事はこっちでしょ?」
矢田部は若槻が消えるなり
老人ホーム内で何か問題が起きたのか。きっと何か嫌なことでもあったのだろう。ベテランの若槻には強く言えないので、代わりに出入りの業者にきつく当たって
「大体、タクシーの運転手が女ってなんなの? 人手が足りなくて事務員に任せているの?」
「いえ、私は正式なドライバーとして業務にあたっています。会社でも私を含めて三名の女性がドライバーとして勤務しておりますので」
「だから何? 正式か何かは知らないけど、頼りないって言ってるんだけど」
「私は、勤続三年目になりますが安全運転をモットーに無事故無違反で業務を続けています。会社の優良ドライバーにも選ばれていますので、ご安心いただけるかと思います」
千晶は
しかし千晶はそこまで話すつもりはない。矢田部のような相手には余計な説明をすべきではないと経験的に知っていた。言い負かしたり説得を試みたりしたところで火に油を注ぐだけだ。とはいえ卑屈になったり、上辺だけの謝罪を繰り返したりもすべきではない。笑顔で誠実に受け答えするのが最良だった。
矢田部も次の嫌味が思いつかなかったのか、はぁっと
「ほら、早くこっちへ来て」
「危ない!」
千晶は慌てて両手を差し出す。龍崎はよろめきながらも転ばずに持ち
「龍崎善三さん、80歳。会ったことある?」
「い、いえ。私は初めてお目にかかります」
「本当に大丈夫?
「大丈夫です。他のかたも通院されている病院ですから行き慣れています」
「言っておくけど、龍崎さん、頭がちょっとあれだから気をつけて。だからいつもの人が良かったのに」
矢田部は冷めた
「急に怒ったり泣いたりするかもしれないけど、うまくなだめて。
千晶は返答せずに龍崎を見つめる。矢田部の発言が聞こえなかったのか、それとも自身のこととは思っていないのか、
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