第2話



【8月20日 午後3時32分 市道しどう 奈良阪南田原線ならさかみなみたわらせん


 どこか遠くで、クラクションが鳴っている。


 街の喧騒けんそうを貫くように響く警笛けいてきの音。


 犬の遠吠えにも似ているが、それよりも大きく、長く、鋭い。


 前触れもなく鳴り出して、いきなり耳に届くから、いつも驚かされて体が震える。


 まるで目の前に幽霊が現れたかのように。


 あるいは、出会いたくない誰かに、後ろから肩を叩かれた時のように。

 

 芹沢千晶せりざわちあきは黒縁眼鏡の奥で視線を素早く動かして自分の右側とルームミラーに目を移す。この車に向けてではない。二車線の右側を走るクリーニング店の白いワゴン車も、後ろを走る緑色の配送トラックも、そんなそぶりは見せていない。クラクションは誰かの車が、誰かに対して鳴らし続けているのだろう。


 自動車のクラクションは法律で110デシベル程度に定められていると聞いたことがある。教習所の教官か、車検の担当者か、以前の友達か、覚えていないが、そんな話をするのはきっと男だろう。110デシベルはライブハウスの音楽や工場の騒音よりも大きく、近くで離着陸する飛行機や落雷にも迫る音量らしい。また音が途切れず、大きさが変化しないことも規定に含まれている。何秒間も抑揚よくようなく鳴り響く音は自然界に存在しないので、安易に聞き流すことはできないからだ。


 そのためエンジンの掛かった車内で窓を閉め切り、エアコンで冷房をフル稼働させて、さらにラジオを聞いていても耳に届く。クラクションが他の騒音と違うのは、いち早く相手の注意を引くために鳴らされることだ。人が最も素早く反応するのは、命の危険が迫った時。それは敵意を向けられたことも意味している。


 つまりクラクションは、相手の恐怖と怒りを呼び覚ますために鳴らされるのだ。


「……うん、ちゃんと聞こえてるよ。母さん」


 外からのクラクションが途切れたあと、千晶は同乗者のいない車内で声を上げる。ハンズフリーのイアホンマイクを右耳に着けて電話で会話を続けていた。


「今ちょっと運転中だから……遊びじゃないよ。仕事。そう、介護タクシー。お爺ちゃんお婆ちゃんの送り迎え……大丈夫。今は一人。これから向かうところだよ」


 奈良阪南田原線ならさかみなみたわらせん、通称『ならやま大通り』を東に進み、交わる国道24号線を南下する。片側二車線の広い道だが平日の午後はいつも渋滞気味だ。奈良の北部は主要な幹線道路が少なく、京都の南からやって来る車の多くはこの道に集まってくる。荷物を運搬するトラックやルートセールスの商用車、タクシーや観光バスが行き交っている。もちろん一般人の乗用車も多かった。


「ううん、そんなに大変でもないよ。重病人を運ぶわけじゃないからね。買い物や通院に付き合うだけ。あ、たまに観光のお世話をすることもあるよね。大仏さまを見たいとか、奈良公園の鹿に会いたいとか。できる範囲でそういうのもっているよ」


【ラジオ近畿、水曜お昼のアフターワイド。皆さんご存じでしょうか? 本日8月20日は交通信号設置記念日だそうです。1931年、昭和6年に東京の銀座や京橋に日本で初めて赤・青・黄……いや、赤・黄・青の三色信号が設置されたとか。信号、ちゃんと確認していますか? って、そりゃ見ていますよね。ドライバーの皆さん、今日も安全運転、安心運転でお願いします……】


 つけっぱなしのラジオ番組が左耳から聞こえてくる。以前までそんな習慣はなかったが、三年前に今の仕事を始めてからはよく聴取ちょうしゅするようになっていた。一人で運転している時は暇潰しになり、客の高齢者を乗せている時も話の種になる。車内でずっと会話を続けるのも、逆に無言で居続けるのも気まずいものだった。


 同じ会社に勤める夫は、古い演歌や懐メロをよく車内で流しているらしい。車載の音楽プレーヤーには数百曲がストックされていて、客からリクエストを受けることもあるそうだ。なかなかいい方法だと感心していたが、どうやら彼の場合は単なる趣味でもあるらしい。カラオケセットとマイクも搭載したいと、本気とも冗談とも付かない話をしていた。


泰輝たいき? うん、ちゃんと面倒見ている。放ったらかしになんてしてないから。仕事は問題ないよ。普通のタクシードライバーと違って深夜まで働くわけじゃないからね。会社も理解あるところだし……うん、そうだね。もうちょっと積極的になって欲しいと思うけど……いや、この話はまた今度でいいでしょ」


 前方には水色のコンパクトカーが走っていて、後部座席に二人の女の後頭部が見える。どちらも明るいブラウンに染めたミディアムで、一人は大きく開いたうなじから健康的な白い肌が覗いていた。大学生だろうか。可愛らしい車種とカラーリングから見て運転手も同年代の女かもしれない。夏休みの平日に女同士で気ままなドライブか。開けっぴろげな嬌声きょうせいがこちらにまで聞こえて来そうだった。


「うん……うん……ねぇ母さん、そろそろ客先に到着するから、もういい? うん、だから今日はあと一件だけ。遅くはならないよ。行き先? 生駒いこま市のほうの霊園にお墓参りみたい。……いや、無理だよ。お客さまをまた老人ホームへ送り届けなきゃならないから、母さんの病院へは寄ってられないよ」


 その時、ふと左上のルームミラーに黒い影が差し込んだ。


 まぶしい視界の一部が切り取られたように暗くなる。いつの間にか、後続車が配送トラックから別の黒くて大きな車に替わっていた。漆塗うるしぬりのようにつやのあるボンネットと、銀色に光るフロントグリル。それが千晶の車に目一杯まで近づいて後方の景色をさえぎっていた。


「え、何? ……そう、また熱が出ているんだね」


 千晶はルームミラーから目を離して正面を見据える。右耳からは力ない母の声が続いていた。


「そう……夏バテじゃない? 毎日この暑さだと私だって疲れるからね。ちゃんとご飯は食べてる? 駄目だよ、食欲ないとか言ってちゃ」


 アクセルを踏みつつ再びルームミラーに目を向けたが、黒い後続車との距離は変わらない。連なる車同士の車間距離は適度に保ち、先行する車が急ブレーキを踏んでも対応できる距離感が望ましい。とはいえ道路事情も千差万別せんさばんべつな一般道では、具体的に何メートル離れるかなど決められるものではない。追突事故を起こさなければ個々の感覚にるところも大きいだろう。

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