第2話
二
【8月20日 午後3時32分
どこか遠くで、クラクションが鳴っている。
街の
犬の遠吠えにも似ているが、それよりも大きく、長く、鋭い。
前触れもなく鳴り出して、いきなり耳に届くから、いつも驚かされて体が震える。
まるで目の前に幽霊が現れたかのように。
あるいは、出会いたくない誰かに、後ろから肩を叩かれた時のように。
自動車のクラクションは法律で110デシベル程度に定められていると聞いたことがある。教習所の教官か、車検の担当者か、以前の友達か、覚えていないが、そんな話をするのはきっと男だろう。110デシベルはライブハウスの音楽や工場の騒音よりも大きく、近くで離着陸する飛行機や落雷にも迫る音量らしい。また音が途切れず、大きさが変化しないことも規定に含まれている。何秒間も
そのためエンジンの掛かった車内で窓を閉め切り、エアコンで冷房をフル稼働させて、さらにラジオを聞いていても耳に届く。クラクションが他の騒音と違うのは、いち早く相手の注意を引くために鳴らされることだ。人が最も素早く反応するのは、命の危険が迫った時。それは敵意を向けられたことも意味している。
つまりクラクションは、相手の恐怖と怒りを呼び覚ますために鳴らされるのだ。
「……うん、ちゃんと聞こえてるよ。母さん」
外からのクラクションが途切れたあと、千晶は同乗者のいない車内で声を上げる。ハンズフリーのイアホンマイクを右耳に着けて電話で会話を続けていた。
「今ちょっと運転中だから……遊びじゃないよ。仕事。そう、介護タクシー。お爺ちゃんお婆ちゃんの送り迎え……大丈夫。今は一人。これから向かうところだよ」
「ううん、そんなに大変でもないよ。重病人を運ぶわけじゃないからね。買い物や通院に付き合うだけ。あ、たまに観光のお世話をすることもあるよね。大仏さまを見たいとか、奈良公園の鹿に会いたいとか。できる範囲でそういうのも
【ラジオ近畿、水曜お昼のアフターワイド。皆さんご存じでしょうか? 本日8月20日は交通信号設置記念日だそうです。1931年、昭和6年に東京の銀座や京橋に日本で初めて赤・青・黄……いや、赤・黄・青の三色信号が設置されたとか。信号、ちゃんと確認していますか? って、そりゃ見ていますよね。ドライバーの皆さん、今日も安全運転、安心運転でお願いします……】
つけっぱなしのラジオ番組が左耳から聞こえてくる。以前までそんな習慣はなかったが、三年前に今の仕事を始めてからはよく
同じ会社に勤める夫は、古い演歌や懐メロをよく車内で流しているらしい。車載の音楽プレーヤーには数百曲がストックされていて、客からリクエストを受けることもあるそうだ。なかなかいい方法だと感心していたが、どうやら彼の場合は単なる趣味でもあるらしい。カラオケセットとマイクも搭載したいと、本気とも冗談とも付かない話をしていた。
「
前方には水色のコンパクトカーが走っていて、後部座席に二人の女の後頭部が見える。どちらも明るいブラウンに染めたミディアムで、一人は大きく開いたうなじから健康的な白い肌が覗いていた。大学生だろうか。可愛らしい車種とカラーリングから見て運転手も同年代の女かもしれない。夏休みの平日に女同士で気ままなドライブか。開けっぴろげな
「うん……うん……ねぇ母さん、そろそろ客先に到着するから、もういい? うん、だから今日はあと一件だけ。遅くはならないよ。行き先?
その時、ふと左上のルームミラーに黒い影が差し込んだ。
「え、何? ……そう、また熱が出ているんだね」
千晶はルームミラーから目を離して正面を見据える。右耳からは力ない母の声が続いていた。
「そう……夏バテじゃない? 毎日この暑さだと私だって疲れるからね。ちゃんとご飯は食べてる? 駄目だよ、食欲ないとか言ってちゃ」
アクセルを踏みつつ再びルームミラーに目を向けたが、黒い後続車との距離は変わらない。連なる車同士の車間距離は適度に保ち、先行する車が急ブレーキを踏んでも対応できる距離感が望ましい。とはいえ道路事情も
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